人間がへた

誰のためにもならないことだけ書きます。半径三メートルの出来事と、たまに映画と音楽。

「あ」の一文字で一体いくら稼ぐんだ

現在東京のお台場でやっているデザインあ展に行ってきた。同期の友人と三人で行った。「デザイン展行くとか業界人っぽくない?ひまだし」という、意識が低すぎて地下に潜ってしまったタイプの滑り出しだった。

わたしは予定を前々から立てていると前日や当日の朝に面倒になってしまう性質の悪い人間で、今回も例に漏れず若干面倒になっていた。面倒になった結果当日の朝四時頃までベッドの中で、犬が肉を食べたり人が肉を食べたりするyoutubeの動画を観ていた。

「絶対朝眠いやん、だる」

全方位自分のせいだが逆切れの境地に至っているのでそこには意識が及ばない。より良く生きる、という普遍的な価値に対する一種のアンチテーゼ存在としてわたしは日々を生きている。でも朝はすごく早く目が覚めた上にとてもすっきりと起きれた。自分が思う以上に楽しみにしていたようだ。バカなのかこいつは。

12時に新橋で待ち合わせをした。遠足の時だけ早く来るタイプのアホと同じくわたしも一番最初に到着したので、適当に喫茶店に入った。方向音痴なのでおしゃれな喫茶店などを探しているうちに迷うのが怖くて、一番最初に目についた、看板のカラーの組み合わせがおかしい上にどことなくくすんでいて店内はたばこ臭くて椅子のカバーがあちこち破れて綿が飛び出している、古き悪き喫茶店に入った。頼んだアイスティーは紅茶の香りがする水だった。

しばしして友人の一人からグループLINEで「いまどこ?」と連絡が入る。店名と位置情報を送ったが分からないようだった。

「ゆりかもめ駅入り口前のエスカレーターを新橋駅側に降りて、『行きたくないな~嫌だな~汚いな~』と思う方向に進んだら、『入りたくないな~嫌だな~汚いな~』と思う喫茶店があるので、そこにいます」

と返事をした。

「分からせる気ないやろ」と返事が来たが、二人ともその説明で無事わたしのいた喫茶店に辿りついたので、あの状況での最適解を叩き出していたようだ。

デザインあ展はとても混雑していた。整理券を受け取って、入場まで時間があったので写真撮影可能ブースで写真を撮ることにした。所謂インスタ映えのためのブースである。

「インスタ映え狙っていこうよ」とわたしが言う。

「恥ずかしいやん」と友人が答えた。

なにを言うか!一喝である。インスタ映えというと10代の子たちのもので、20も後半に差し掛かった女が本気でゴールを獲りに行くようにバエを獲りに行くことは滑稽だとするような風潮があるが、そもそも10代なんぞこちらから言わせて貰えば何もしなくともバエている。加工なんかしなくても顔にシミや皺なぞないし、仮にそばかすやニキビがあっても、太陽の下で笑って楽しそうにしていればバエることができる。雷雨の下でやっててもバエている。いや雷雨の下で笑ってんのはそれはそれでアートになりそうですね。 とりあえず、言いたいことは、わたしたちのようなアンチエイジングというワードに現実味が生まれてきたあたりの世代こそ、本気でバエを狙いに行くべきだ、ということである。

「バエを全力で狙うくらいで、結果的にはちょうど良くなるやんか」

「確かにそうかも」「バエ狙っていこっか」

書いてて思ったが、三者三様にバランスよくバカである。

そんな感じでバエを獲りに行った結果ちょうど良い感じに仕上がった写真などを撮った。ちなみにこのインスタ映え演説が尾を引いたせいで、昼ごはんに入った何の引っかかりもない定食屋で、何の引っかかりもない定食を前に三人で一生懸命自撮りをするという地獄の時間が10分ほどあった。改めて写真を見返してみても、この時の写真だけは「何なんだろうこれは」という感想しか湧いてこない。バエにも限界があるだろう。

デザインあ展自体はまあまあ楽しかった。入口付近のブースでは、卵の焼け具合を精巧に再現した作品(食品サンプル)や、弁当の中身をカテゴリごとに分けて展示した作品(食品サンプル)や、それら食材を詰めた作品(弁当の食品サンプル)などが並べられていた。全てスーパーに行けば見れる。

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展示を進んでいくうちに、日常に存在するありふれたものをあえて分解・統一・変形させることで、普段は見過ごしている「物」そのものが持つデザイン性や概念といったものを確認していくようなコンセプトなのかな、と自己解釈できるようになったが、最初は本当に訳が分からなかった。1600円払って食品サンプル見せられてる~と思った。周りのカップルたちは口々に「全然わかんない」「どういう態度で見たらいいのコレ」「意味わかんなくない?」と言っていたが、その口で「でも面白いね」とも言っていた。一種の防衛反応があちらこちらで働いていた。もしくは本当に面白いと感じていたのなら、それはデザインあ展が楽しいのではなく、恋人と一緒にデザインあ展に来ているという状況が楽しいのだと思うので、認識を改めた方がよい。1600円、かかるわけですし。もっと良い使い道、多分あるはず。

一通り見終えて、出口近くのおみやげブースを見た。「あ」の文字が模られたフェルトで出来たストラップや、「あ」と書かれたハンカチなどが、1800円とか2500円とかで売られていた。わたしは「あ」の形をしたシールが五枚入ったものを一つ買った。600円くらいした。

「千と千尋の神隠し」の千尋は、親をブタにされた挙句、「ひ」と「ろ」の二文字を奪われて数字の単位に強制的に改名された上にただ働きを強いられているのに、片や「あ」の一文字が1000円も2000円もするのである。

デザインって分からない。そんなことを思う平日の昼下がりだった。

職場でずっと股間をまさぐる、刑務作業にも近い何か

最近ちょっと太った。人には指摘されない範囲内ではあるが、当社比で確実に肉がついた。わたしは太るとまず顔と腹に肉がつくタイプで、おまけに腹に関しては長いこと寝るか酒を飲むかの不摂生な生活を送っていたこともあり筋肉がほぼ無いため、太れば太っただけ何の抑圧も受けず前に出てくる。ほぼ、と言いましたが「ゼロ」と言っても全く問題はない。「ゼロ」という虚無の概念が古代インド人によって発見・定義され、それにより数学史は飛躍を遂げたが、その恩恵にわたしも与ろうと思う。古代インド人もまさかわたしの腹肉の説明と、人類最大の発明とも言われる0という概念を結び付けて語られる時代が来るとは夢にも思わなかったでしょう。発展は賢者にも愚者にも平等に訪れる。

それで、普段からよく着用している何の変哲もない黒いスキニーパンツがあり、職場にもよく着て行っている。裾が切りっぱなしになっている、さりげないセンスを伺わせるパンツだ。同期からも「お前ジーンズぼろぼろだぞ、早く新しいの買えよ」と評判高い。そのパンツが、太ったせいで少し窮屈になってしまった。といっても全く問題なく着用できるし、痩せないとなあと思いながら履き続けているわけだが、問題はこのパンツのジッパーの滑りがとても良いことだ。

念のため言っておくが、わたしは滑りの良いジッパーというものがとても好きだ。力を入れなくても、手の動きたい方向にスッと付いてきてくれる。わたしはそういうジッパーをとても好ましく思う。主人の背後に伏目がちに佇み、欲しいと思ったタイミングでちょうど良い温度のダージリンを華美ではないが手に馴染むカップで持ってきてくれる、英国執事的な紳士さが滑りの良いジッパーにはある。

翻して、滑りの悪いジッパーのストレスといったらない。急いでいる時に限って何が引っ掛かっているのか石のように動かず、進むことも戻ることも出来ないジッパー。あれはもう家から出なさすぎて外出という行為に強迫的な恐怖を抱くようになった引きこもりと変わらない。力任せに動かそうとして最悪の場合ジッパーの噛み合わせが外れてしまったりすると、もうそのジッパーが付随するものが服であろうと鞄であろうと靴であろうと等しく「ゴミ」と呼ばれるようになる。そう考えると単なる機能・付属品の一部として捉えられていたジッパーこそが、ある物体が何たるかを定義づけることの重要な役割を担っているのかもしれない。すごいぞジッパー、ちゃんと動け。

それで、わたしのスキニーパンツをスキニーパンツたらしめている一部であるジッパーは、優秀な部類に入る方で、履くときにストレスを感じさせたことがない英国紳士なジッパーだ。ただ、滑りが良すぎて意図せぬタイミングで開いてしまうことがある。歩行や着席・起立などのちょっとした運動で勝手に開いてしまうのである。ただ、開くと言ってもこれまでは1センチ程度ずれてきてしまうくらいのものだったので、気付いた時にしっかりと引き上げておけば特に不自由もなく優雅なスキニーライフを送れていたのだが、太ったことでわたしの日常生活に暗雲が立ち込めつつある。

端的に言うと全開になる。歩行程度なら問題はないが、デスク作業の際にちょっと猫背になって腹肉で負荷などかけようものなら、もうフルオープン。試食販売のおばちゃん並みに開かれている。

開かれていた方が良いものは世間には沢山ある。情報、学問、人への親しみ、意識の高そうなセレクトショップのドアなどがそれである。だが、ジッパー、特にズボンについたジッパーに限って言えば、それは「開かれていてはいけないもの」に類される。ズボンのジッパーを「社会の窓」などと言うが、これは意識して閉じていなければいけない。やはりあらゆる他者と交錯する社会的場では、「閉じる」ということが大事になってくるのかもしれない。社会的/フォーマルな状況下においては、他者に対してある程度閉じていることが適切な振る舞いとされることをアメリカの社会学者アーヴィン・ゴッフマンは「儀礼的無関心」と名付け提唱したが、ズボンのジッパーは個人の社会に対峙する態度の象徴として機能しているのだろうか。

一度、そのパンツを履いてそれなりに長時間社内をうろつき、デスクに戻って席に着いた時何気なく目線を落とすとわたしの社会の窓が全開だったことがあった。「うそだろ」と思った。即座にジッパーを上げ戻し、そのスムーズさに英国紳士を感じつつ「どうして?」と思う。

今までずっと一緒に楽しくやってきたじゃない。どうして今になって、よりによってこんな時に、わたしを裏切るのよ。

優しさとはよく切れる包丁と似ている。いつもは心地よく自分を手助けしてくれる存在が、少し間違えば致命的な傷を与える凶器と化す。

わたしはそんなことを考えた。そして対策として、事あるごとに股間をまさぐってはジッパーがずり落ちていないか確認するようになった。ずっと信じていた存在に裏切られた痛みというのは人の意識レベルにまで浸潤してくるもので、デスクでの仕事中や立ち上がって喫煙やトイレに行く時はもちろん、長めのトップスを着ていてジッパーがそもそも見えないような服装の時ですら、トップスをたくし上げて社会の窓の開閉を確認するようになった。そして仮に閉じていたとしても、今一度しっかりと上までジッパーを引き上げる作業をしないと落ち着かなくなった。

もはやガスの元栓や鍵を閉めたかを何度も確認しないと気が済まない強迫神経症と限りなく近い何かになってきている。

かくして、職場でことあるごとに股間付近に手をやってはモゾモゾしている26歳の一人の女が誕生した。股間に手をやり、ゴソゴソする。頭では分かっている。普通にしていればそうそう開くことはないし、気になるならば離席時や人のいないタイミングで確認すれば問題はない。何ならズボンのジッパーが開いていることより、しょっちゅう股間に手をやって何やらやっていることの方が社会的評価には打撃が大きい。分かってはいるが、やるしかない。何かに追い立てられるようにやるその作業は、きっと刑務作業と似ている。

人は大人になるとうんこを拾うようになる

会社で内内の会議をしていて、話もまとまり皆パソコンを閉じた。誰が始めるともなしに雑談が始まり、何の流れだったか「泣いてしまう時」の話になった。

わたしが大学二回生だった頃、特に病んでいたわけでもないのだが、よくある洋服洗剤や柔軟剤のCMで、青空晴れ渡る空の下で母親と幼い子供が真っ白なシーツをパンッ!とやって干すシーンや、真っ白な洗い立てのタオルに子どもが頬をうずめて「やわらか~い」とやる、洗剤CM恒例のアレを見る度に号泣していた時期があった。

何故そんな時期があったか分からないが、とにかく涙腺がガバガバの時代があった。明治安田生命のCMなんかは当然号泣。太陽が東から上り西に沈んでいくことと、わたしが明治安田生命のCMを見て泣くことは等しく自明なことであった。もはやパブロフの犬。たまにテンションが上がりすぎて嬉ションする犬がいるが当時のわたしはそれと似たようなもんだった。小田和正流れたら泣く、そういう生き物だった。まあさすがにおしっこは漏らしてないですが。かれら人類の友としての地位を確立したと思って呑気に口呼吸しながらしっぽぶん回してますが、ゆうても獣なのでね。獣とは区別して頂きたい。口で体温調節とかしないし、わたし。

保険のCMで泣き、真っ白なシーツで泣き、ACのCMで泣き、バファリンのCMで泣き、あとはあれですね、自分でもそろそろやべえなと思ったのがタケモトピアノの「ピアノ売ってちょぉぉ~だい」のやつで泣いたとき。号泣しながら自分に引いた。通常であれば「何度見ても狂ってるなこのCM」とか「このCMで赤ちゃん泣き止むってほんとかな」とかその程度の反応が今や号泣である。

後ろで踊ってるわけわかんないタイツ着た女性たちもダンサーとして粒粒辛苦の努力を積み重ねて遂にCM出演。彼女らの母や父はタケモトピアノのCMが流れる度に膝を整えてTVに向き合い娘の姿を目で追うのだろう。そう考えて泣いた。

「はあ?」である。もう面倒なのでこの話はいい。

わたしの告白を聞き、「それ単純に病んでんだよ、申し訳ないけども」と先輩が言い、「そういえば」と続けた。「俺も泣けるCMあるんだよ」

これである。

www.youtube.comスムーズに話を進めたかったがちょっと待ってほしい。実はわたしは上記の鈴与CMを知らなかったので、代わりに脳内補完で「こんな感じかな」と思い浮かべていたのが以下のCMだ。

www.youtube.comその先輩は「子どもが無邪気に未来について考えたり、子供らしい勘違いをしたりしてたら、すげえ可愛いんだけど、でもいつかこの無邪気さってなくなっちゃうんだよなあって思うと泣けちゃうんだよ」とまあまあ大人の闇を感じる理由を訥々と述べていたが一旦いい、その話は。

下の西鉄CMなら確かに泣ける。納得である。というかわたしも完全に*イメージ:西鉄鉄道CM、で想像していたので「ああ~あれ泣けますよねえ」とかアホ面で答えていた。泣けるのはお前の頭だ。

初めの鈴与CMを今一度観てほしい。凪いだ海。真っ青だ。すると何だか笑いを堪えているかのような間の抜けた女の声で「見たことないぃ~ものぉ」と歌が始まる。 見たことないものがどうした?どうなるんだ?歌の続きを気にしつつ画面につい食い入ると、「見てみぃぃた~~」のところで凪いだ海から突然クソデカいクジラが半回転のひねりを加えながらズバアアーーーーーーー出てきて「見てみたいや」の「た~~~いやぁ」の収束に合わせてドッパァァァーーーーーーン!!!!!着水。

シンプルに爆笑である。笑いを生み出す仕組みは様々にあり、その中に「静と動の急激な変化」や「不条理さ」などがあるが鈴与CMはこの二つを確実に満たしている。凪いだ海から突然の半回転ルッツでクジラがズバアアアーーーーーーーーードッパァァァアアだ。笑わない訳がない。ごっつ時代のダウンタウンのコントに見られたナイフのように鋭い静から動への移り変わりがここにはある。

そもそもクジラは存在そのものが不条理である。でかすぎる。子どもに「おっきい動物ってなにかな?」と聞いてみてほしい。恐らく十中八九「ゾウ!」と笑顔を弾けさせて答えるはずだ。ゾウは確かに大きいが、温厚(そう)で、大らか(そう)で、そして動物園に行けば会える。身近だからこそ、大きさが何十倍、いや何千倍と違う小さな子どもからもゾウは愛され、にんじんやら林檎やらを手渡しで与えて貰えるのである。

だがクジラはどうか。そもそもクジラは普段は沖の海を回遊しているので直接見る機会など大人でも中々ない。金と手間をかけてホエールウォッチングにでも行くしかない。行動が制限される子どもなど尚更。なんなら「クジラ?しらない!」である。クジラを既知の子どもはクジラを呼び捨てになどしない。「クジラさん」、もしくは礼節を弁えた子どもなら「クジラさま」である。当然だが手渡しでそこらへんの草など与えようとしない。ただその大きさにひれ伏し、忘れかけていた被捕食者の恐怖と惨めさと羨望が綯い交ぜになった震える呼吸がクジラに漏れ聞こえてしまわぬよう、ただ唇を噛みしめてクジラが通り過ぎるのを待つことしか出来ない。

食物連鎖の頂点に君臨したと奢り高ぶった人類に、異議を唱える存在がクジラである。クジラは我々に大きさというものに対しての無力をその身を持って教えてくれる。少年ジャンプなんかで小さな者が大きな者に勝利するストーリーは溢れているが、所詮子ども騙し。アリが剣を持とうが銃を持とうが踏みつぶされて終わりなように、わたしたちもクジラに勝つ術など持たない。アイヌはこの世にいる動物たちをカムイ、つまり神や、神の贈り物として敬い、自然と共存する生き方を選択した。わたしも彼らに倣って、以降は敬意をこめてクジラをアイヌ語の「フンぺ」と記述したい。

話を戻そう。その神なるフンぺがアホみたいな女の歌に合わせて、いやフンぺが合わしてるわけじゃないが、海から半回転ルッツをしながらズバアアーーーーーーーーだ。笑わない方が失礼。ズバアアーーーーー!!!からのドッパアァァァーーーーーン!!!フィギュアスケートなら100点、飛び込みなら0点のフンぺによる演技である。

「見たことないもの 見てみたい」と歌っているが、今そこに見えているものは何だ。目の前で今まさに見たことないものが大はしゃぎ中だ。フンぺが半回転ルッツからの0点着水する姿など誰が見たことあるか。歌ってないで前を見ろ。目を開け。括目せよという言葉と結婚して根性と歌声を叩き直して貰いたい。

 

話がずいぶん逸れましたがそういう感じの話があってですね。大人になることとは何かって話になった時に「大人になるとうんこ踏まなくなるよね」とフンぺCMで泣いた先輩が言ったわけですよ。「子どもは前を見て走っているから下が見えなくてうんこ踏んじゃうけど、大人は下ばっか見て歩いてるからうんこ踏まないんだよ」

「いや踏みますよ」と。満場一致で「踏むよ」と。一人の先輩なんかは「なんなら飼い犬のうんこ膝で踏みますよ」と言うわけです。踏むのかあお前ら、となった時にわたしが言うわけですよ。

「わたしなんかトイレから飛び散った飼い猫のうんこをそれだと気づかないで拾ったりしますよ」

「得体の知れねえもん素手で拾うなよ」

その通りですね。

意識が高すぎると人は残飯に価値を見出すようになる

この前20時か21時くらいまで会社で残業をしていて、さてそろそろ帰ろうかという時分に同期の男を見かけた。

この男はわたしが会社から割り当てられているコインロッカーの近くに座っているので、ひまな時に数分ほど立ち話をする。その時も「まだ仕事あんの~?」くらいのテンションで話しかけた。

だいぶ仕事が立て込んでいるようで、男はちょっと疲れた顔で「まだちょっとやることあるんだよ」と言っていた。

この男、とにかく意識が高い人物で、その高すぎる意識に身体が追い付いていないタイプの人間である。将来はワーカホリック。これはもう決まっている。わたしの中で。

そして常に黒いシャツを着ている。下半身は黒スーツズボン。わたしも黒い服ばかり着ているので人に言えた義理ではないがもはや葬式帰りである。あるいはいつでも葬式に行ける。

黒シャツ固定には経緯がある。入社後しばらくは広告代理店らしからぬリクルートスーツにメガネをかけた「地味」が服を着て歩いているような男だったので、ある日着てきた黒シャツを「おしゃれやん」と褒めたら本当にそれしか着てこなくなった。

本人的にはスティーブ・ジョブスのように服を選ぶ時間を削減していると悦に入っている可能性すらあるが、こちらとしては恐らく一枚しかないであろうその黒シャツをどのようにして着まわしているのか気になって仕方がない。というか回せていない。ちゃんと洗っているのか。その黒色は垢汚れなんじゃないのか。洗え。他の色のシャツを着ろ。喪に服すな。

ちなみに現在勤める会社から内定後に出されたグループ課題で男とわたしは同じ班だったのだが、課題制作が修論の締切前の追い込み時期とモロかぶりしており、悩みに悩んだ末に「修論に集中したいので一週間内定課題から離れさせてほしい」とメンバーに伝えた直後、班リーダーをやっていた男が「では昨日のリーダー会の様子を共有します。『この程度の課題が学校やバイトと両立できない人はどうせ仕事できない』と会社の人が言っていました」と発言したことをわたしはありありと記憶している。明確な殺意が生まれる瞬間というものをみなさんは体験したことがあるだろうか。わたしはある。

まあそれは置いておいて、意識高い人間の例に漏れずこの男も会社へのロイヤリティーが謎に高い。三日飲まず食わずの野良猫に高級猫缶をやってもここまで忠誠心は抱かないだろうと思う。ワンピースのギンだって飯貰っときながらすげー戦ってたし。サンジと。あれはほんとひどいと思う。

そんな男が神妙な顔をして「これを見てくれ」と言って傍にあった小箱を開けたものだから、覗き込むとなんのことはないただのランチボックスである。ハンバーガーとサンドイッチ二切れ程が入っている。

「これが何よ」とわたしは尋ねた。

男は言った。

「これはねえ…さっき俺が参加してきた社長や役員たちが出席する会議の軽食の余りなんだ」

だから何だという話である。希少な鉱物を入手したとでも言うなら少しは付き合ってやろうかという気にもなるが要するに残飯である。26年間生きてきて残飯をしずしずとご紹介預かるわたしの人生とは何なのだろうと思いを馳せたくなる。

「だからなに」

五文字である。シンプルに興味がない。興味はないが、人として最低限の付き合いはしておかねばならないだろうと葛藤した時この五文字は現れる。

「ただの残り物だけどさあ…社長や役員の残り物だと思うと味わいもひとしおだよね…」

シンプルに「なんだこいつ」と思った。20代も後半にさしかかった男が社長と言えども肩書をひん剥けばただのおっさんたちの残飯を恍惚とした様子で眺める姿はもはや不気味を通り越して理解不能である。命を捨てても愛し抜くと決めた相手がいたとしてもその愛しき人の残飯には愛着は抱かないだろう。人が残飯を愛しさを持って見つめる時、そいつはただ空腹である。なんか食え。それで終わりである。

でもよくよく思い出してみたらわたしも高校の時の漢文教師にガチ恋をしていた時は、その教師に借りた本に挟まっていた髪の毛が愛おしくてしばらく眺めていたことがある。小さなガラス小瓶に入れて机に置いておきたいとさえ思った。ガラス小瓶に想い人の髪を入れて飾る女はただの狂人である。それか呪術師。

というわけでこの男は恐らく社長や役員に心底恋をしているのだろう。好きな人と働けるヨロコビ、いいですよね。行き着く先は残飯ですが。

きれいな映画を観た後にふと思い出される女になりたい②

 前半記事で松田龍平の伴侶が安藤サクラだ安藤サクラだと連呼しているが、松田龍平の妻は太田莉菜だった。安藤サクラの夫は江本佑だった。友人の指摘で気付いた。大変に恥ずかしい。にわかが丸出し。アホの展示会である。ちなみに友人は太田莉菜が大好きらしい。わたしも好き。

さて、綺麗映画女になる話に戻ろう。これだけ読むと妖怪にでもなるつもりの頭のおかしい女でしかない。革命家には常に孤独と無理解がつきまとう。

いよいよ綺麗映画女になる

大体ターゲット(綺麗映画男)と、そこで作らねばならない関係は整理できた。あとはもう綺麗映画女のイメージを固めるだけである。いよいよケーキの盛り付け部分。小さい時何度か母と一緒にケーキを作ったことがあるけど、イチゴ乗せたりクリーム乗せたりしてる時が一番楽しかった。多分これはわたしだけじゃないと思う。大体の子どもはケーキに飾り付けするのが好き。飾り付けというか、クリーム絞んのが好き。あととりあえずアラザンとかカラースプレーチョコを振り掛けたがる。

ちょっと脱線する。ケーキの話してたらケーキの話をしたくなってきた。

何なんだろうこの日本語は。うんちしてたらうんちしたくなってきた、みたいな話。どんだけうんち出すんだ、便秘か。でも時々ありません?うんちしたあとすぐうんちしたくなること。人はこれを残便と呼ぶ。やめよう。わたしはケーキの話がしたいのであってうんちの話は別にしたくない。

洗練されたデザインの一つの形は、装飾を徹底的に排除したものである。「機能美」という言葉もあるように、必要最低限ただそれだけ、という無駄の排除は美しさを生む所作なのである。その点、子どもは無駄の排除というところからは最も遠い場所にいる。足しゃいいと思ってる。クラッシュナッツとかアラザンとかカラースプレーとか、とりあえずあるもん皆使う。それで満足する。結果統一感を一切感じさせない大阪ミナミのようなケーキが出来上がる。それでも子どもは誇らしげだ。しかしその自分の作品への根拠なき誇らしさが、芸術家への第一歩なのかもしれない。どうでもいい。

綺麗映画女に話を戻そう。まず確信している点が一つある。綺麗映画女は絶対に良い匂いがする。タバコとか吸わない。お酒も飲まない。飲んでもシャンパンを一杯、特別な日にだけ口を濡らすように飲むのだろう。良い匂いどころか何の匂いもしないのではないか。つまるところわたしは綺麗映画女は生活感の無い女だと思っているんだろう。これは理解されるんじゃないか。

生活感の無い女。印象の薄い女。一緒にいた時の回りの風景や会話は思い出せるのに、顔や声が靄がかったようにおぼろげな感じ。

だってすげー思い出されるのは何か違う気がする。「あいつ寝る時の歯ぎしりうるさかったな」とか「酔って吐いて居酒屋の手洗い場詰まらせてたな」まで思い出してしまうと曲のトーンまで変わってきてしまう。途端に銀杏ボーイズ感がでてくる。何度も言うが情緒が無い。

そもそもそんな思い出のある女は綺麗な映画を観た後に想起される女ではない。タバコのヤニの臭いとか朝5時の歌舞伎町の臭いなどが思い出トリガーになるような女だ、そいつは。そういう女を思い出すための映画なら『ナニワ金融道』だろう。基本的にVシネであることは間違いない。何の手本にもならない。引っ込んでいて欲しい。

わたしは綺麗映画女になれるのか

さてここまで来たが、わたしは綺麗映画になれるのだろうか。結論から言おう。なれない。悟った。だいぶ前に気付いた。知ってた。なれない。

そもそも一日にタバコを一箱は吸い、「糖質ゼロだから」と言い訳をしてハイボール(濃いめ)を飲み腐り、翌日記憶を失ったままあわよくば迎え酒をする女などが綺麗な映画を観た後に思い出してもらおうなどと、おこがましさの極みでしかない。

そもそもわたしは「きみ(綺麗映画女)」を勝手に女だと決めつけて話をしているが、「きみ」が女であるとはどこにも断定されていない。「きみ」が男である可能性も大いにあるわけだ。その場合この曲はマッキー的世界観になる。わたしが出る幕など一ミリも無い。

そもそもこんなブログで長々と映画綺麗女になるべく分析する女は綺麗映画女には絶対なれない。彼女たちは何もせずとも綺麗映画男に思い出してもらえるはずだ。月と太陽が常に対照されることに理由が必要ないように、綺麗映画男と綺麗映画女はただそこにある、そういう存在だ。多分。知らんけど。

綺麗映画女になりたいという欲望が生まれた瞬間に、綺麗映画女になることは永遠に不可能になる。哲学みたいな話ですね。哲学の本読んだあとに思い出してください。

きれいな映画を観た後にふと思い出される女になりたい

mol-74というバンドの「エイプリル」という曲を仕事中に聴いた。

綺麗な映画を観たあとに

ふと君を思い出した

 という歌詞があり、なんて良い歌詞なんだと感動した。

同時に、きれいな映画を観た後に思い出されるような女にわたしはなりたい、と思った。どんな女だ、綺麗な映画を観たあとに思い出されるような女は。全然わからん。

とりあえず綺麗な映画を観たあとに思い出される女になるべくその本質を探りたい。探った上で課題について考えたい。もちろん課題とはわたしである。課題しかない。「課題」で辞書を引くと「黒ずみ」と出てくる。

あと「綺麗な映画を観た後にふと思い出される女」「綺麗な映画を観たあとに「きみ」を思い出す男」は長すぎるので以下「綺麗映画女/男」と記述する。妖怪の名前みたいになってしまったが、細かいことはこの際気にしない。

「ぼく」はクラブになど行かない

まず「ぼく」という男を分析したい。

つまりターゲットである。市場と言ってもいい。ここがキチンとしていないといくらモノが良くても話が成立しない。わたしが血のにじむような努力の結果、綺麗映画女になっても、綺麗映画男にリーチしなければ意味がない。

例えば350mlの缶ビールを飲みながら「おねだりマスカッツ」を観て爆笑する男には、綺麗映画女のような知り合いなどいないし、よしんばいたとしても深い仲になれるわけがない。そもそもそんな奴は綺麗な映画を観ない。なのでこいつはターゲットではない。

あくまでもターゲットは「ぼく」。

綺麗な映画を恐らく一人で観るような人物だからそれなりに教養は深いだろう。受け身でコンテンツを消費するだけでなくそこから連想する想像力もある。アウトドアよりインドア派。本をよく読む。少ないが信頼に足る友人がいる。金木犀の咲く頃に「秋のにおいがするね」とか言うタイプ。寡黙な方だが、酒を飲むと饒舌になりよく笑う、そして一人称が「ぼく」から「俺」になる。でも三杯ビールを飲むと寝てしまうような男だ。

ビジュアルはどうか。

個人的にはオダギリジョーなんかに思い出してもらいたい。でもオダギリジョーはそこらへんで引っかけた女とセックスしてる最中に昔の女を思い出すタイプ(最悪なイメージである)なのでちょっと違う。知らないけど、多分そう。

松田龍平でもいい。でも松田龍平は真面目に映画観そう。真面目に映画観て、真面目に「この映画のどこが綺麗だったか」ということを考えてしまう。入り込む余地がない。大体松田龍平には安藤サクラという素晴らしい女優の伴侶がいる。オダギリジョーにもいるけど。松田龍平には安藤サクラのことだけを考えていてほしい。安藤サクラと映画について語り合っていて欲しい。

良い人物が思い浮かばないので、エグザイルのNAOTOを暫定的にビジュアルイメージに規定する。

恐らくNAOTOはクラブでテキーラを飲みながら例のR.Y.U.S.E.Iダンスを有象無象に見せつけ、面積の少ない服を着た女と寝て早朝に渋谷のゴミになっている、綺麗映画男とは対極にいるタイプだろうし(最悪なイメージである)、「ぼく」は自分の名前をアルファベット表記することなど断じて無いが、仕方ないのでガワだけ借りる。顔がタイプなので。

「綺麗な映画」とは

これは割とすんなり決まりそう。まず邦画。なぜならハリウッド映画観た後に想起される女は多分日本人ではない。さすがに国籍は変えらんない。

なので邦画は第一条件、恐らくは何気ない日常に潜む愛しさや切なさを、雪をすくうような優しさで描き出した映画だろう。

最近観た邦画で良かったのは『万引き家族』だが、あれで想起される女は手癖が悪そうなので嫌だ。それに『万引き家族』を観てふと思い出される女は確実に安藤サクラであるし、安藤サクラを想起するのは松田龍平しかいない。結局その二人で循環してしまう。やはり入り込む余地がない。

『愛の流刑地』も違う。確実に綺麗映画女は昔不倫していた女になる。島耕作的世界観は持ち込みたくない。

まあ『あの夏、いちばん静かな海。』か『ジョゼと虎と魚たち』あたりがいいんじゃないか。ちょっと面倒になってきている。早く綺麗映画女になるための解が欲しい。綺麗映画女の方程式を証明したい。ここで立ち止まっていられない。

「ぼく」と「きみ」の関係

そもそもこの二人はどんな関係だったのか。「思い出す」というくらいだしそれなりに長いこと会ってないんだろう。歌詞はこう続く。

綺麗な映画を観たあとに

ふと君を思い出した

あの日をなぞれば何となく

また戻れそうな気になって

なった

映画を観たあと、「ぼく」ふと「きみ」を思い出し、「きみ」と過ごした「あの日」に思いを巡らす。

「また戻れそうな気になって」のあとの「なった」というところで、「ぼく」の思考は一気に過去に引き戻される。ふとしたきっかけで思い出した女との日々は、「ぼく」にとってはまだ遠い日の美しき思い出にはなっていない。

サビにはこうある。

奇跡のように出会って

必然のように別れて

映画みたいにはいかない結末に

僕は何を思う

 問題が生じた。

二人が別れたという結末が「映画みたいにいかない」ということは、映画自体は円満に終わっているということだ。『ジョゼと虎と魚たち』は破綻しているし、『あの夏、いちばん静かな海。』に至っては男の方が死んでいる。これでは映画観た後に「命があるだけいいか」となってしまう。情緒が生まれない。

『今度は愛妻家』に設定し直そう。これは女の方が死んでいるが、この際綺麗映画女は既に死んでいて構わない。思い出せりゃそれでいい。とにかく早く綺麗映画女になりたい。正気を保っていられない。

二人の関係の話に戻そう。

順当に考えて二人は付き合っていて、何等かの理由で別れたのだろう。奇跡のように出会った、とあるがここは言葉通りに捉える必要はない。

「奇跡のように」を事実とすると、パン咥えて走る女と曲がり角でぶつかったとか、本屋で本を取ろうとしたら偶然手が触れあったとか、途端にIQ低めの少女漫画世界感が流入してきてしまう。「りぼん」のお話になってしまう。すごい頑張っても「マーガレット」レベルが関の山の知性。

パンに至っては平成という時間軸さえ飛び越えて昭和にいってしまっている。「奇跡のやうに」と記述しなければならなくなる。ジジイとババアの話になる。これはいけない。なので奇跡は平凡でいい。きみと出会えたことが奇跡のように感じられる、という「ぼく」の気持ちがこのような表現になったということに過ぎない。

とりあえず二人は付き合って別れた。ここまでは良い。大変シンプルだ。しかし別れ方とその理由は精査の必要がある。例えば男が浮気して振られた、だと事情が変わる。性欲が絡んだ途端に俗世的になるし、単純に「お前が悪い」で終わる。余韻もクソもない。別れの理由は「すれ違い」とかでいい。物事はシンプルな方がスピードが生まれる。

以上を整理すると、二人は何となく付き合いだし、ふとした時に相手を「好きだなあ」と思い、そんな時だけちょっと長めのキスをして「急にどうしたの?」と笑われる。

「何でもない」

「ふーん」

そういう会話が交わされて、またお互い手元の本に目線を落とす。そういう関係だ。

つまりわたしは綺麗映画女になるためにはまず綺麗映画男とお付き合いをして、唐突に「好きだ」と思って長めのキスをし、そしてすれ違いによって別れなければならない。

ハードルは高いが、努力なしに人は何かを成し得ない。

 

いい加減長くなってきたので一旦区切る。

「綺麗な映画を観たあとにふと思い出される女」の何がわたしをこんなに駆り立てるかは分からないけど、とにかく綺麗な映画を観た後に思い出されたい。

自分の要求を通すために地べたの汚さも厭わず、全部の文字に濁点をつけて全身で泣け叫ぶ子ども。欲望具合でいうとあれに近い。ところで駄々をこねる子どもというのは何故一様にあおむけに転がるのか。うつぶせのパターンを見たことがない。

そういえば夏になると現れる、死んでる振りをして横を通り過ぎるとジジジジッと断末魔を上げてねずみ花火の如く足元をはい回り人間を翻弄するセミ(セミ爆弾と呼んでいる)。あれは仰向けだったら本当に死んでいると聞いたことがある。子どもが仰向けになるのは「要求を叶えねば死ぬ」という覚悟の表明なのか。子どもを死んだセミと同列に扱うことの倫理観の方を気にするべきか。

 

助走がなくても人は飛べる

ブログを始めた。

始めたといってもやる気は全然ない。この記事すら最後まで書けるか分からない。むしろ人間というものはこんなにやる気が無いのに何かを始められるんだ、という素直な発見があった。

でも一応続けていきたいので、やる気が皆無なのは良い兆候だと思う。わたしは「継続」というものは「やるぞおおお!うおおおお!」というテンションでは絶対に続かないと思っている。このテンションで何かを継続できるという人がいるならば、その人の中には松岡修三が住んでいる。

ブログタイトルは適当につけた。自分の半径三メートルの出来事しか書かないつもりなので、まず自分を起点に「わたしとはなんだろう」と考えてみた。

「黒と白の服しか持ってない」とか「写真写りが悪い」とか「太るとまず顔に肉がつく」などの短絡的かつ物質的なものしか思い浮かばなかったので、もう少し俯瞰的に「わたしの生き方とはなんだろう」と考えた。「生きるのがへた」という言葉が浮かんだのでこれでいいや、と一瞬決まりかけたけど、次に「生きるとはなんだろう」という疑問が浮かんだ。

だって生きるつっても色々あるし。植物や動物や微生物も生きてるし。でもさすがにミジンコの「生きる」と人間としての「生きる」を同列に捉えたくない。もうちょっと頑張って生きてるもんという自意識がある。いやミジンコも頑張ってるかもしらんけど。でも人間としての矜持はちょっとアピールしときたい。というわけで、わたしは人間だ、人間は生きるものだ、わたしは生きるのが下手だ、つまりわたしは人間が下手なのだ、となった。個人的に腹落ちはしたけど、他の人にとっては大変分かりにくいものになった。でもそういうのも含めて多分「人間がへた」なのでしばらくこれでいい。めんどくさいし。

他には会社の同期からつけられた「ニコカスアル中(ニコチンとアルコール中毒のカス人間の略)」というあだ名をそのままタイトルにするかとも考えたけど、大阪の西成に住む濁った緑色のジャンパーを一年中着ているおじさんのパチスロ奮闘記のような内容だと勘違いされそうなのでやめた。でも内容的にはそう差異はないかもしんない。

とりあえず飽きたら次は「ニコカスアル中」にブログタイトルを変える。