人間がへた

誰のためにもならないことだけ書きます。半径三メートルの出来事と、たまに映画と音楽。

駅構内の吊り広告に人間の一生を見る

夏頃、仕事で打ち合わせに赴くためにある駅に降り立った。

駅は都心からは外れていて、時間がゆっくりと流れているような下町情緒的な雰囲気のある街にあった。わたしは東京は隅から隅まで都会だと思っている節があるので、東京でも電車で30分そこら移動すればこんな街があるんだなあ、と感慨深かった。

「駅 吊り広告」の画像検索結果

いつものように駅内の広告を眺めながら歩く。この業界で働いていると、つい広告に目がいくようになる。わたしは元々好きで広告業界に入ったので、広告に意識して歩くことは習慣化していた。初めて訪れる街でも、駅構内の広告を見れば住民や利用者の層を何となく把握できる。この街に住み、毎日駅を利用しているのがどんな人々なのか、想像しながら見知らぬ街を歩くのも、また乙なものである。

改札を抜けて出口に向かって歩く。小さな駅なので、目と鼻の先に地上への階段が見えた。無意識に目線を上げて天井から吊り下げられた広告のボードを見る。

「パチンコ」「パチンコ」「パチンコ」という並びで広告が出ていた。

普段は広告を見ても、大抵の場合は何も感じずに通り過ぎていく。多くの人の広告に対する態度と変わらない。ふーん、てなもんである。

しかしパチンコ広告が三連発であった時点で少し面白かった。わたしはパチンコを打ったことはないが、多少は知識がある。「広告も連チャンしてら」と思った。小さな街で娯楽も少なそうなので、パチンコはその一翼を担っているのかなあ、などと考えながら続く広告に目をやる。

「歯槽膿漏クリニック」「糖尿病治療専門病院」の文字が目に入る。

ああ確かに高齢層が多そうだもんなあ。パチンコも高齢者の客に支えられてんのかなあ。それにしても覇気を感じさせない広告が続くもんだわ、と歩みを進める。出口はもうすぐそこだ。最後の広告が手前に吊られている。

葬儀屋の広告だった。さすがにここで噴き出した。いくらなんでも露骨すぎる。よりによって「パチンコ」「歯槽膿漏」「糖尿病」「葬式」の順で広告を出すか。悪意を感じずにいられない。糖尿病、治ってないし。死んでるし。ヤブ医者やんけ。そういうことを一瞬で考えた。

しかも出口の手前に葬儀屋の広告を配置するか。ただの出口なのに、くぐるのを躊躇ってしまう。これ、もしかして今世からの出口なんじゃないの? 冥土への入り口とも言うんじゃないの?と。

この広告群やその並びが、何かを意図しているわけではないことは分かる。単純に駅の主利用者層が広告主のターゲットに沿うもので、たまたまこういう並びになったのだろう。しかし偶然の積み重なりが、見事に「一人の人間が死にゆくまでの過程」という言外のメタ・メッセージを引き連れてきている。

おまけに、これは完全に偏見で失礼極まりないことを承知で書くが、「パチンコ」と「歯槽膿漏」「糖尿病」の間に妙な親和性があるのもいけない。確かにパチンコに通い詰めている高齢者は、歯槽膿漏も糖尿病も患ってそう、と納得してしまうのだ。単発的に頭に浮かんだ考えに、勝手に肉付きがなされていく。葬儀屋の広告が「少額家族葬」を売りにしていたのも、物悲しさを強調した。

独立した二人の子どもも、家庭を作り郊外に家を建てたそうだが、とんと実家には寄り付かない。孫の成長は、一年に一度届く年賀状で知る。暇を持て余して、若い時分には見向きもしなかったパチンコにハマり、首を突き出すようにして日がな一日パチンコ台を見つめる。ビカビカと光る「大当たり!」という文字と、安っぽい大音量のBGMだけが唯一の生活の慰めだが、時々、それすらも嘘っぽく感じられる。最近、体調もあまり良くない。歯が痛くて食欲も無いし、数年前に糖尿病が発覚して毎週薬を貰いに行くあのクリニックも、果たしてどれだけ役に立っているのか…。

ある日、新聞配達員が異変に気付く。ポストに数日分新聞が溜まっている。おずおずとインターホンを鳴らす。返事はない。ドアノブを回すと、ドアが開いた。名前を呼び掛けてみる。やはり返事はない。シン、とした空気だけが、暗闇の向こうに広がっている…。

ここまで考えて泣きそうになって辞めた。

とにかく、駅構内に広告を配置する人は、並びまできちんと考えてください。人々の頭上に、人間の生涯ファネルを示さないでください。あと黒ずみは、単なる広告の並びでここまで妄想を膨らまして全世界発信するのをやめてください。

撮影中の大絶賛は、心も身体もハダカにする

ちょっとした縁で、tiktokというアプリの撮影に参加した。撮影内容については関係がないので省かせてもらいたい。

多分ある程度若い人ならご存知だろうが、tiktokとは短尺動画共有のSNSである。アプリから提供される音楽クリップや短尺動画の音声に合わせて、リップシンクやモーションシンクをしながら撮影し、投稿する。映像に様々な特殊効果や編集を施す機能も搭載されている。

そのtiktokというアプリの撮影被写体になってくれないか、という依頼が来たわけである。簡単に言えばカメラテストみたいなもんだ。オンライン上には投稿もしない、という話だった。

このアプリ、単刀直入に言うと若者向けである。若者というか、主な利用者層は中高生に占められている。中高生が撮影し、中高生が共有し、中高生がイイネ!する。26歳の女が入り込む隙など、どこにもない。メディアの一つとしての最低限の知識はあるが、ただそれだけだ。知識と感情が結びつかない。「知ってはいるが、それがどうした」というもの。なのでわたしは、自分は一生tiktokに関わらないまま生涯を閉じるのだろう、と本気で考えていた。

そんなわたしにtiktokの被写体になって欲しいと!

何を一人で盛り上がっているんだと不思議に思う人も多いだろうが、わたしは大学時代の一日の行動を円グラフで示すなら「睡眠」「酒」で事足りる女だ。円書いて一本線引いて終わり。休日は「酒」のところに「映画」か「本」が加わる。やはり円書いて線引いて終わる。なんなら「睡眠」だけの日もあった。これに至っては円書いて終わり。2歳児だって、クレヨン渡されりゃもっと複雑なもん描くだろう。

なにせわたしは「インキャ」「インキャラ」「インキャガ」と、ファイナルファンタジー系魔法三段変化を体現したような人間だから。インキャの魔法だけ、ガ系まで習得した。ちなみにインキャガの魔法効能は、パリピ属性全体へのダメージ。「うぇい」を詠唱できなくなるステータス異常もつく。

そんなわたしにtiktokの被写体になって欲しいと!

興奮冷めやらないが、冷静な自分も持ち合わせてはいる。依頼側としては、わたしに被写体としてのアドバンテージを期待して、白羽の矢を立てたわけではないだろう。どうせあいつ暇だろう程度の基準だと推察される。だが、こちらとしては何らかの代表に抜擢されたくらいのテンションである。

「えっ!わたしが、世界アイドル選手権のグランプリ!?」

「えっ!わたしが、伝説のイケメン魔法使いの婚約者!?」

上記の例と同等程度の「えっ!わたしが、若者アプリtiktokの被写体!?」という驚きである。鼻息も荒れる。さすがに人前でフンスフンスやってると異常者かバッファローだと思われるので、なんとか鼻腔の暴走は抑えたが。理性動物としての自負もありますし。

正直、依頼を許諾するか逡巡はした。だが本心を明かすと、依頼が来た瞬間には心を決めていた。しかし、決心する理由がわたしには必要だった。

恐らく、恋して止まない片思い相手からの求愛への態度に近い。「好きだ」と言われた瞬間に、心は決まっている。だが、高揚して踊り出したい気持ちを抑えて、数秒の間の後「…ありがとう」という気持ちと同じだ。

長年にわたる片思いの歴史への肯定を、簡単に終わらせてしまいたくない。あなたの言う「好き」とわたしが心に溜め続けてきた「好き」は、一緒なんかじゃない! いっぱい好きで、いっぱい泣いた。その涙をあなたにも知ってほしい。でも重いと思われて、嫌われたくない。想い人への溢れる恋心を、心の奥の奥の宝箱にしまって、そっと鍵をかけて、そしてこの人と生きていこう。その決心が「…」の部分に詰まっているのだ。

まあ、そんな経験したことないんだが。冷静に自照すると、恐らく鼻息が抑えられずバッファローになる。そして振られる。だって彼は人間で、わたしはバッファローだから。

話が逸れた。本題に戻ろう。

かくして、わたしは「謹んで承ります」と返事をし、tiktok被写体としてのデビューを決めた。さすがに撮影には依頼である以上迷惑をかけないように、殊更まじめに取り組んだが(「真面目だね」と言われた)、心の鼻腔には台風21号が発生していた。

完成した動画は、依頼側の撮影・編集スキルと、アプリ自体の加工性能の高さも相まって、よくあるtiktokの映像そのものだった。モロtiktokだった。tiktokでtiktokの動画撮ってんだから、そらそうに決まってんだろと思うが。その時は「これ、あたい知ってる!」「これ、インターネットで見たやつ!」「tiktokってやつ!」と感動していた。「本当にあったんだ!」みたいな。賢者の石を前にした人のようなリアクションですが、実際はtiktokですからね。もちろん、誰でも無料で使えます。

それと、撮影者のノセ方が大変上手かった。わたしは元々写真を撮られるのすら苦手だ。歌う真似をしながらダンスもどきの動きをする様子を、人前でまじまじと撮られることなど、「地獄」の一言以外のなにものでもなかったのだが、ノセ方次第で人の苦手意識なんかコロッと変わるもんなのだ。

撮影中は音を立てないので、基本tiktok内の音楽を流す以外は皆無言なのだが、撮影後のフォローが上手かった。マルク・マルケスのコーナリングくらい上手い(分かる人いるのか、これ)。

「この表情いいね~」「本当にtiktokにいそう!」「リズムも難しいのに上手にやってくれて完璧だよ」「最後ちょっと照れてるっぽいのが可愛いよね」

わたしが映った動画を数人でチェックしながら、ずっとこんな賛美が飛んでくるのである。あれはすごい。

「え、わたし、まだまだtiktokでもいけちゃう?」

本当にこんな気分になってくるのである。「もしかしてtiktokインフルエンサーになれちゃう?」みたいな。

もしこれがグラビア撮影で、撮影中にもあのテンションでずっと褒められ続けたら、確実に脱いでいた。秒で脱ぐ。そして齢26歳にして「熟女モノ」デビューを飾る。

酔っぱらいの帰巣本能について

電車に乗っている時、目の前に酔っ払いが立った。サラリーマン風の中年男性だったが、露骨なまでに酔っていた。「酔っ払い」という概念すら知らない赤子でも、あれが酔っ払いだよ、と指さしてやれば「なるほど」と言葉を喋りだすんじゃないかと思うくらいに。

男は吊革に両手で捕まっていたが、立ちながらほぼ寝ていたようで、ものすごい勢いで揺れていた。グラグラ、という生易しい表現では再現しきれない。グワァ~ングワァ~ンという擬音が相応しい揺れ方だった。

小心者のわたしとしては、いつおっさんが目の前に座っているわたしに向かって倒れこんできやしないかと気が気でなかったのだが、横に座っていた中年女性は男には目もくれずクロスワードに夢中だった。この動じなさについてはある種の尊敬すら抱いた。東京の電車にはゴミと猛者が同居しているんだ。民度のるつぼだな、と考えた。すごいところに来てしまった、と故郷に想いを馳せたりもした。

「こんなに酔っていたら、家まで辿りつけないだろうなあ」と少しの慮りもあった。だがわたしの心配をよそに、ある駅に電車が到着しアナウンスが流れると同時に、男はパッと目を開き、フラフラとドアを出て行ったのだ。

すごい帰巣本能だ!と感動した。人間の形をしたハトやん!とも。一人で大盛り上がりだった。

ただ酔っ払いの帰巣本能についてはわたしも似たような経験を何度もしているので、分かるところがある。飲みに行って大いに酔っ払い、記憶すら朧気だが朝にはちゃんと自室のベッドで目が覚めている。まあ、冷蔵庫の中にスマホをしまっていたり、スマホのメモ帳に「鼻毛が三つ編みになっているキャラクターは大体すごい強い」などと謎のダイイングメッセージが残されている程度の酔狂さはあるが。

ただ、それを考慮してもあの男の帰巣本能はすごいんじゃないか。酒臭さも揺れ具合も相当なものだったから、余程深酒をしたんだろう。前後不覚の状態で、電車内のざわつきの中から降りるべき駅のアナウンスだけ的確に聞き分け、しっかりと降車したわけである。ハトでさえも、あそこまで酔っぱらってたら巣にはたどり着けないんじゃないか。

そういえば、まだ通信機器の発達していなかった時代の新聞記者は、ハトを数羽常に携帯していたという。伝書鳩に文書をくくりつけて飛ばすことで、スクープやニュースをいち早く会社に届けるためだ。

今でこそ、通信技術は隆昌を極め、ハトなど持ち歩かずとも情報のやり取りは出来るが、何があるか分からない昨今である。あらゆる情報網が絶たれ、そこらへんでポッポポッポやっているハトが絶滅危惧種に認定される時代が訪れないとは言えない。そうなった時は、新聞記者は酔っ払いのおっさんを数人引き連れていけば良い。ハトにエサをやるように、おっさんには紙パック焼酎を与える。記事が完成したら、おっさんにくくりつけて放流してやれば良い。

ただ、酔っ払いのおっさんを何人も引き連れている新聞記者の取材に応じる人間はいないだろうな、とも思う。

「本来、公正・公平性が保たれているべき政治が、政治家の権力や既得権益に委ねられている現状についてどう思われますか?」とか大真面目に語る記者の後ろで、酔っぱらったおっさん達が「ま~た小難しい話して!」「お食事券の汚職事件ってか!?」と、ポッポポッポやっているわけである。

多分、おっさんとの酒盛りに夢中になってしまう。新聞記者が酔っぱらったおっさんを引き連れないのも、納得である。

「世田谷」という単語を凶器に変える男

以前、同期が軽井沢に旅行に行ったとのことで、お土産を買ってきてくれた。「軽井沢美人」という名前の赤ワインだった。

地酒を貰うというのはとても嬉しい。ある場所でしか買えないという特別感があるし、地酒を飲むと何となくその土地を体験しているような気分になれる。素直に喜び、「ありがとう!」と礼を言うと、男は「まあお前は世田谷のブスだけどな」と言った。

予想だにしていなかった唐突な罵倒に唖然とする。この同期とは軽口を叩きあう気のおけない仲ではあるが、この時はただ和やかに談笑していただけなのに。あまりにも突然な罵倒だったため狼狽すらした。

「ありがとう!」

「お前は世田谷のブスだけどな」

もはや会話が成立していない。会話の文脈を無視してまで、わたしが世田谷のブスであるという主張を行わずにはいられなかったのか。文脈を無視して人を罵倒する男。こんな奴とは誰も友達になりたがらない。通常、人が誰かに侮蔑されたと感じたときに生じる反応は「怒り」や「悔しさ」であると思うが、この時わたしに沸き上がった感情は1割の怒りと、9割の困惑だ。怒りと困惑を持て余し、その両方を超スピードで行き来していた。感情の反復横跳び。

そもそも、わたしは世田谷在住ですらない。おまけに、まだ東京に出てきて日も浅いので世田谷がどんな街かも分からない。「東京のブス」ではなく、わざわざ「世田谷の」と限定したからには何がしかの含意があるのだろうが、知る由もない。知らない街を接頭語につけてバカにされる、こんな屈辱があるか!

この同期の男を便宜的にスズキと呼ぼう。スズキはとにかく酒癖が悪い。ある時、同期全員で飲み会をやったのだが、女子のヒールを脱がしそこに日本酒を注いで飲んでいたらしい。しかも自主的に。そして別の同期の男には、何故か自分の靴に日本酒を注いだものを飲ませたらしい。そこはせめて女子の靴で飲ませてやれよ、と思うが。まあ街の名前すら悪口にするような悪鬼羅刹なので、さもありなんか。

そして王様気質でもある。なまじスペックが高いものだから、今よりも若い時分には相当腰高な人物だったようだ。「俺、小学生でサッカーする時はずっとフォワードやってたし」と言っていた。「キーパーは友達にやらしてた」とも。わたしはサッカーには明るくないので、何となくしかニュアンスを受け取れないが、友達に一生キーパーを押し付ける行いが非人道的であることは分かる。

しかしこんなスズキも、就職し、社会の荒波に揉まれ、第一線で活躍してきた先輩社員を目の前にしても王様でいられるほど傲慢ではなかったようだ。「全然敵わねえ…」としょんぼりしていた。そうやって大きくなっていくもんよ、と肩を叩いて慰め合った日もあった。

だがこの前、何気なくスズキのインスタグラムを見るとユーザー名が「suzuking」だった。王様、全然抜けとらんやん、と思った。全然嘘やん、むっちゃヒエラルキーの頂点としての自意識持ってるやん、と。上京して忘れかけていた大阪弁も蘇る。人の方言に再び命を吹き込む平成の王様。

それにしても、王様と世田谷のブスが同時に在籍している企業というのは凄いんじゃないか。他にありますか、王様と世田谷のブスをいっしょくたにして採用する企業。ダイバーシティもいくとこまでいったな、という感じ。性別どころか、国境も時代も階層も飛び越えている。王様と世田谷のブスが同じ釜の飯を食っているわけである。

でも、改めて考えてみると、そういうことから戦争や差別は無くなっていくのかもな。何とか良い感じの話として終わらせようと思ったが、成立していないのは認識している。なんせ、登場人物が平成の日本で王様を自称する狂人と、世田谷のブスだけだし。引きのないメンバー紹介。

tinderを使いこなすゴリラ in ハプバー

少し前に大学の時の友人と飲みに行った。その時の話をしたい。

まず本題に入る前にこの友人の説明をしておきたい。年齢はわたしと同い年の26歳。東京大学大学院卒。経済学専攻。twitterで事あるごとに「社会学はクソ」と発言して憚らない。ちなみにわたしの大学院での専攻は社会学。シンプルに殴りたい。twitterで多方面に議論を吹っ掛けるせいで、最近旧知の友人にブロックされたらしい。顔は穏やかなゴリラ。

その男が「tinderに登録した」という。tinderとはfacebookと連携したマッチングアプリだ。ライトな出会い系みたいなもんと理解してもらえばいい。男には長い付き合いの恋人がいる。だが男は浮気や出会い系とは縁遠いタイプなので、そのまま続きを促した。

言い分は以下の通りだ。

長い付き合いの恋人がいて、結婚を考えている。でも俺は今の恋人でしか女性を知らないと言ってもいい。男という生き物は結婚前に遊んでいないと、結婚後にタガを外して浮気をしまくるという。だから結婚前に、思いっきり遊んでやろうと思ったんだ。

「いやいや」である。隙あらば「経済的価値」というクロス軸のみで世界中の事々物々を切ろうとする男も、やはり性欲ゴリラへと回帰するのか。わたしは性欲を正当化する男が嫌いだ。水滸伝に登場する宦官たちを見てみろ。私利私欲を満たし、女も抱きまくるあの姿、正に悪徳の確乎不抜という言葉が相応しい。どうせ抱くなら堂々とやれ、そういうことだ。

「ちゃうねん」

ちゃうらしい。前のめりになった身体を戻して話を聞く。

彼女以外の女性と、セックスはしたくない。セックスどころか、ボディータッチすら嫌だ。だが、「結婚前に思いっきり遊んでやった!」という確信が欲しい。そこで、経験の少ない自分に考えられうる”究極の遊び”を実行してやった。

なるほど、である。軽はずみに浮気するような男ではないので、この弁明はすんなりと受け入れられる。しかしここで気になるのはその”究極の遊び”とやらである。

「tinderでマッチした女の子と一緒にハプバー行った」

ハプバーという単語がどの程度メジャーか分からないので、一応説明を挟んでおく。ハプバーとは「ハプニングバー」の略称である。性的に様々な趣味嗜好を持った人々が集まり、会話や突発的に発生する性的コミュニケーションを楽しむ場である。詳しくは自分で調べてほしい。説明が必要な単語が多くてじれったい。ゴリラはゴリラらしくバナナ齧ってうんこでも投げていてほしい。そしたら何も説明がいらないのに。

話を戻そう。つまり、性的関係を結ばずに遊んだ気分になるには、性的な欲望が還元されずに濃縮しているハプバーという場が最も適しているとロジカルに考えたらしい。ハプバーでは全裸のおっさんが仁王立ちでちんこをライトアップしていたそうだ。何だその地獄絵図。

「何してたのそこで」

「一緒に行った女の子が他の男性とハプニング起こしているのを酒飲みながら見てた」

そして男は満足し、無事tinderを退会したらしい。

それにしても、遊び方が常軌を逸しすぎている。普通にクラブにでも行って、遊んでいる感覚を味わうだけではダメだったのか。映画でよくいる、発狂した車椅子の老人と楽しみ方のベクトルが同じだ。金で買った娼婦やら娼年にセックスをさせて、それをブランデー揺らしながら見ているタイプの。

というか、いくら性的接触を持たなかったとはいえ、ここまでやっておいて清廉潔白といえるのか。恋人がtinderに登録しているのを見つけたとする。「ご、ごめん…気の迷いで…」と言うならまだ納得はできる。しかしこの男の場合はどうか。

「大丈夫、安心してくれ。浮気はしていない。一緒にハプバーに行った女が、他の男とハプニングしているのを、酒を飲みながら見ていただけだから」

こんな解答が返ってくるわけである。自信満々のゴリラ顔で。浮気の有無どうこうの前に、相対する男の人格や倫理観の方に気を取られる。ここで予想される恋人の反応は「浮気なんてサイテー!」ではなく「穢らわしい…」である。余韻を残すタイプの軽蔑。

まあ、もしバレることがあったらこのブログを見せて貰えばいいだろう。大丈夫、彼はちょっと変わったところもありますが、基本的には頭が良く心優しい男です。わたしが保証します。仲直りした後には、バナナでも朝食に出してやってください。

自画自賛するパン「ナイススティック」についての一考察

人の家で宅飲みをしていた。途中でつまみを買いに、深夜までやっている小さなスーパーに行った。わたしはパンを食べる習慣がない。嫌いではないが、米の方が断然好きだからだ。なので、パンコーナーではあからさまにやる気の無い顔をしていた。

日本においては、米はパンと対比されることが多い。ちょっと気の利いたレストランでは、主食を米かパンの二択で選べるところも多い。米と双璧を為すものとして、パンたちは我が物顔でスーパーの一角に居座っている。わたしの露骨なまでの「興味ないけど」という顔は、鼻もちならないパンたちへの一つのアティチュードとしての現れである。

「パン食べないの?これとかおいしいよ」

「別に…」

わたしの中の沢尻エリカが鎌首をもたげている。人から勧められた程度で米から寝返るような尻軽女ではない。しかも「とか」なんていう曖昧なレコメンドでは尚更。

しかし、パンの中に少し気になるものを見つけた。「ナイススティック」と名されたパンだった。パン生地にクリームが挟み込まれている。つい手に取った。すると横にいた男が、「おいしそうじゃん。買おうよ」と半ば有無を言わさぬ形で、ナイススティックを買い物籠に放り込んだ。

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ラム酒のアルコールが良い具合に回った頭で考える。つい手に取ってしまった「ナイススティック」のどこに、わたしは目を引かれたのか。わたしはパンより米が好きだ。それは単純に味や、腹持ちや、幼少期からの慣れ親しみなどが要因だ。パンはパンで美味い。パンの魅力を否定する気は毛頭ない。

しかし、あの軽さは明確に嫌いだ。腹にたまらない。どうしても「おやつ」や「軽食」と同じカテゴリに入ってしまう。朝食にはなるが、ランチにはならない。晩飯にパンを出されようものなら形振り構わず怒る自信がある。

見た目も良く、話も軽妙で愉快な男としばらく過ごして別れた帰り道に、「何してんだろ」と思う気持ちに似ている。一緒にいる時は楽しいが、何も残らない。あれだけ楽しく会話していたはずなのに、思い出せる話題が一つもない。軽薄で空疎なエンターテイメント。それがパンだ。

その中にいて、「ナイススティック」は他と一線を画する空気をまとっていた。「大きなジャムパン」や「クリームぎっしり薄皮ぱん」「りんごたっぷり:アップルパイ」などの中で異彩を放っていた。

パンたちが自信に満ちた薄ら笑いでこちらを見ている。

「あの女、誰を選ぶと思う?」

「西洋に憧れて髪なんか染めてるミーハー女だ。どうせパイとかだよ」

パンたちが周囲を憚らない大声で笑う。居心地の悪さを感じていると、パンの一群が近づいてくる。

「やあ、何してんの。こんな深夜にさ」

「別に…お腹が少し減ったから、おにぎりを買おうと思って」

「おにぎり?やめとけよあんな地味なやつ。俺は薄皮クリームパンっていうんだ、高級生クリーム100%使用だぜ」

「俺はアップルパイ。しかもりんご丸ごと入ってる。あっちでパイ生地でもこねようぜ」

肩書を並び立てるパンたちの演説にうんざりする。するとナイススティックが周りのパンを押しのけて前に出てくる。

「俺はナイススティック。ナイスな棒だ」

わたしは数秒、ナイススティックから目が離せなくなる。名前だけで自己紹介を完結するパン、それがナイススティックだ。「ナイス」を自称する傲慢さに辟易しつつも、そのあまりの不遜さについ笑いがこぼれてしまう。ナイススティックも噴き出すわたしを見て、照れくさそうに首の後ろに手をやる。

「よく生意気な名前だって仲間からも言われるんだ。でもこれが俺の名前だしさ」

いい名前だよ、とわたしは言う。あっちで話そうよ。あなたのナイスなとこ教えて。

ここまでがわたしのナイススティックとの邂逅の全貌だ。みなさん付いてこられているだろうか。

しかし、だ。言いたいことは沢山ある。何なんだ、ナイススティック。さっきまで良い雰囲気だった横の女が突然キレだしてナイススティックも驚いている。やべー女引っかけちまった。多分そういうことを考えている。

まずその名前。まずから始まり、やっぱりで終わる。その名前こそ大問題だ。「さっき『いい名前だね』って言ってたじゃないか」?うるせえ、である。水かけたらふやけるパン風情が人間様に口答えをするな。

そもそもナイススティックのアイデンティティがどこにあるのか分からない。「ナイスパン」ならまだ分かる。なぜ「スティック」としたのか。棒状なので「ナイス」の英語表記に続き「スティック」で統一したのか。しかし棒状のパンはそこらに溢れている。それでも彼らは「フランスパン」とか「丸ごとソーセージ」と自称する。なぜか。誇れるところがあるからだ。自己を自己たらしめる誇り、アイデンティティを咀嚼した上で、名付けが出来ている。

その点、ナイススティックの判然としない態度はいかがなものか。自分の形状にのみ自我を集中させている。これは顔がいいだけの男が「おれイケメン」と言っているのと変わらない。意味の無い同語反復。単なるトートロジー。情報量0。

パン市場は厖大だ。百戦錬磨の強敵たちがひしめき合っている。ナイススティックはもはやその市場で戦おうとしていない。パンとしての要素をまことしやかに隠蔽し、棒市場に身を置いている。パンとしての矜持を投げ捨てて。そんな情けないパンが、棒市場で「ナイス」などと自称し粋がっている。ホームセンターの一角で、メートル何十円で量り売りされる棒たちに言い放つ。

「お前らただの棒だろ?俺はナイスな棒。その上食える」

職人肌の棒たちはこれには納得がいかない。色めきだったステンレスパイプを諫めて、鉄パイプが無骨に言う。

「確かに俺たちは食えない。加工されないと、重くてかさばる邪魔者に過ぎない。だが俺たちは周りの工具や、ネジや、それを管理する技術者と力を合わせることができる。重工業で欠かせない人材としての誇りがある。全員で力を合わせれば、何百トンもの重量を支えることができる。お前がナイスだ食えるだといくら粋がっても、俺たちの絆は揺るがない」

ナイススティックには返す言葉もない。すごすごと、再びスーパーのパンコーナーに戻ってくる。

「俺、ナイススティック!俺たち仲間だろ?仲良くやろうぜ」

ナイススティックは周りのパンたちに軽佻浮薄に声をかける。しかしパンたちからの反応は期待していたものではない。

「何、あいつ」

「ナイススティックって、何がナイスなの?」

「あいつが前いたとこ知ってたか?ホームセンターだぜ。パンとしてのプライドがねえんだ」

一度パンの肩書を捨てたナイススティックを受け入れるパンなどいない。虚空に漂い、どこにも着地できないような、茫洋としたポジティブな名前だけが独り歩きしていく。ようやくナイススティックは気付く。冠された名前の重さに圧し潰されそうな、自分の内面の軽さに。

そしてナイススティックの冒険譚第二章『パン生地から見直す』編が始まる。

わたしは「水をかけられたパン」ということわざを作る。「冠された名前のポジティブさと釣り合いが取れていないことを自覚し、萎縮してしまうこと」の意。

キラキラネームの人は使ってください。

水族館やら動物園をどういうテンションで楽しめばいいのか

以前付き合っていた男性は「水族館が好きだ」と言った。

わたしは家族で出かけた経験がほぼ無く、友人も少ない方なので外出自体に慣れていなかった。そのせいで楽しみ方が分からないということもあるのだろうが、水族館や動物園といった「生き物が展示されている」という空間に苦手意識を感じていた。行けば行ったで、その都度「きれい」とか「面白い」とは思うのだが、どうも作業的になってしまうきらいがあった。

要するに、点呼作業をしている感覚になってしまうのだ。楽しみ方を心得た人ならば、生き物たちの挙動や姿ひとつひとつを観察して、何かしら喜びなり発見があるのだろうが、わたしは違う。

「はい、サルいます。キツネザルいます。はい次~ライオンさんいます。トラもいますね、しましまが追加されました。猫科が続いています。次はゴリラコーナーですが、姿が見えませんね。裏で診察でもされているのでしょうか。まあサル科はさっき見たし良いでしょう、次に進みましょう。」

脳内はこんな感じである。完全に出欠確認。スタッフの方に完全に意識が寄っている。始終スタッフとしての無意識を持ったまま回るので、動物そのものの様子を楽しもうという気持ちが表層に出てこない。小規模の動物園なんかは一時間もせず回り終えてしまう。もっかい回りなおそうよ、と言われても「え、でもさっきいたの見たし…」という戸惑いしか生まれない。出席簿とったあとに「じゃあもう一回!今日はアンコールしちゃうぞ~では安藤!」となる教師はいないでしょう。

水族館での過ごし方も上述とほぼ変わらない。強いて言えば、水族館の方が空調が効いているので好き。その程度の愛情しかない。しかし点呼作業という視点で見るならば、動物園よりも水族館の方が作業に時間と手間がかかる。動物園は1ブースにつき1動物しかいないが、水族館はバカでかい水槽に多種多様な大小の魚類が常に流動的に泳ぎ回っている。探すのが大変だ。そもそも点呼作業の感覚で園やら館やらを回るのを辞めろという話なのだが。

ただそんなわたしにもちょっと楽しいと思える部分はもちろんある。人の心を失ったわけではないので。ただスタッフとしての自意識が高すぎるだけで。

それは動物園ならゾウとかキリンのコーナーだし、水族館ならサメやクラゲのコーナーである。とにかくわたしは大きいものに目がないので、ゾウやキリンはとても好きだ。まずでかい。日常生活ではまず目にすることのないでっかいものが、命を持って活動している。すごい。あと変なとこが長い。ゾウなら鼻だし、キリンなら首。単純に面白い。長くてすごい。語彙力も減る。

水族館にクジラがいたら通い詰めると思う。クジラの大きさに感動しておもらしする。排泄器官も緩む。クジラほど大きくはないけど、トドとかも好き。ずんぐりむっくり、みっちり、ぼってり、そういうオトマノペが似合う生き物は好きだ。地上にいる時の、長体楕円体のものがゴロンと転がっている無様な姿も愛らしいし、水中で自由自在に遊泳している様も良い。

いつもおっとりして優しいだけが取り柄だと思っていた男が、得意分野になると途端に有能と化すのを目の当たりにした時と同じ驚きがある。

「意外とやるんだよ、俺」

トドのドヤ顔が見える。でも得意なとこだけかっこつける男って何か嫌。小学校卒業までにその段階は終わらせていて欲しい。

そういえば小学4年生で転校先にいたクラスメイトの男が、「おれ渡り棒すごい得意なんだ」と言って、渡り棒を披露してくれた謎時間があった。彼は渡り棒の上にしゃがんで、下にいるわたしに向かって「すごいだろ」とかなんとか言っていた。しかし制服のショートパンツの隙間からガッツリきんたまが見えていた。丸出しのモロ出しだった。

正直そこからあまり記憶が無い。家族以外の股間のプライベートゾーンを見たことが無かったので、物凄いインパクトだった。それ以上に、「見えちゃいけないものが見えてる!」という焦りと、「こいつかっこつけてんのにきんたま出てる」というギャップが思考能力を完全に破壊していた。

しかし、最後まで「きんたま見えてるよ」とは言わなかった。クラスメイト、もとい、きんたまを見上げながら「すごいね」と最後まで褒め続けた。転校直後間もない女に、しかも自分がかっこつけている相手に、きんたまがはみ出ているのを指摘されることほど、男のプライドが傷つけられる出来事はないだろう。当時のわたしはそれを理解した上で、事実を胸に留める大人の女の所作を身に着けていたのか。

今わたしは、そのクラスメイトの顔や名前はさっぱり思い出せないが、そのクラスメイトのきんたまだけは鮮明に思い出せる。透き通った青空とショートパンツから覗くきんたまのコントラストは、ロマン主義絵画的な神秘性すらたたえていた。それは美化しすぎか。きんたまはきんたまだ。

水族館の話をしていたはずだったのにきんたまの話になってしまった。動物園や水族館ではスタッフの仕事を奪おうとするし、話をしようとしたらきんたまに思考が奪われてしまう。人間は概念やモノの所有権を奪い合う権威的欲求からは逃げられないのか。このカルマの輪廻から解放されたい。きんたまモチーフに生涯を捧げる画家にでもなれば良いのか。光の幻想的な美しさに蠱惑されたクロード・モネのように。

 

日常における映画の登場人物ぽいシーン番付ベスト3

私用と社用のスマホを二台とも画面を割ってしまったので、修理に出した店の隣にあるドトールでパソコンだけを持ってこれを書いている。

精密機器であるスマホを二台とも落として割る、白痴的行為については自分でもどうかと思う。なんならこのドトールに入って着席した五分足らずで、コンビニで買ったハンカチが入っていた包装を落とし、レジで取ったwifi接続手順が記載された紙を落とし(ちなみに携帯が無いのでwifi接続は出来なかった)、パソコンだけでもwifi接続できないか店員に聞きに行って席に戻るとイヤホンが床に落ちていた(ちなみにパソコンだけだとやはりwifi接続は出来なかった)。

横に座っていた男性が、「こいつ一体どんだけ物落とすんだ」という顔でこちらを一瞥したが、彼はわたしがここにいるそもそもの理由が、スマホを落として画面を割ったせいであることを知らない。

自然と物を落としてしまう、そういう職業があるのならわたしはセミプロの域に達していると言っても過言ではないだろう。職業病のようなもんである。

もしわたしがマジシャンであったならば、席についてパソコンを取り出そうと開けた鞄からハトが飛び出し、タバコに火をつけた瞬間に先端に花が咲き、そしてわたしも椅子から若干浮いているだろう。その場合、横の男性は「マジシャンがいる」と感嘆の表情でわたしの一挙手一投足を見つめる。サインを求めるためのメモ帳があったかな、と思いを巡らしながら。ここでの不幸はわたしの職業がマジシャンではなかった一点につきる。もっとわかりやすい職業だったなら、こんな誤解は生じなかった。ていうか物を落とすプロでもないのだが。そんなプロいてたまるか。

閑話休題。話を戻そう。そういったわけで暇なので、この記事では表題の通り、わたしが日常生活を送る上で「あ、今のわたし映画のワンシーンみたい」と感じる瞬間ベスト3について紹介したい。

ちなみに今ドトールでタバコを吸いながらこの記事を書いている状況も、もしここが少し寂れた個人経営のこだわったコーヒーを出す店だったならば、『コーヒー&シガレッツ』的シーンとして一候補に挙がったのだが、いかんせんドトールなので番付落ちである。今飲んでるの、アイスティーだし。

わたしは基本的に裸族なので、部屋にいる時の正装はTシャツにパンツ一丁である。暑い時なんかはTシャツすら着ていない。これだけだと単なる怠惰な26歳女のクソに近い日常の一コマであるが、ここに特異性が生まれる瞬間がある。外出の予定がある前に、風呂に入り化粧を済ませ髪を巻く。洋服を選ぶ前に、とりあえず下着だけを身に着けて換気扇の下でタバコを吸う、この瞬間である。完璧に仕上がったばかりの女が、まだ洗っていないコップや皿の置かれた生活感のあるシンクの横で、下着だけで虚空を見つめてタバコを吸う、そのアンバランスさ、その奇異性。映画の冒頭にありそうな一コマである。是非とも是枝監督に撮って欲しい。

次に、満員電車、出来れば夜の方がいいが、出入り口にもたれかかって外を眺めている時。これは確実に『ガールオンザトレイン』から連想されている。満員電車というのは、多くの他人が肩と肩を擦り合わせながら移動する乗り物なので、それ故に刹那的な物語が生じやすい場である。酷く酔った様子の若者を挟んで、目の前に座る人と目だけで苦笑の気持ちをやり取りする瞬間。ドアのガラス越しに目が合ったどこの誰かも知らぬ人が、どんどん小さくなっていく光景。赤の他人と密着している特殊な空間なのに、皆当たり前のような顔をして、わたしの横を通り過ぎていく、その違和感。これは西川美和監督にお願いしたい。残業後に疲れて電車の窓によりかかっておくので、発車と共にわたしが遠ざかっていく様子を、ちょっと間延びした感じで撮ってください、と。多分たっかいカメラでどつかれる。

しゃっくりが止まらなくて友達と笑いあっているシーンなんかもいい。必死に息を吐いたり吸ったり、コップの向こう側から水を飲もうとして服がびしゃびしゃになったりするところを、三木聡監督に『インザプール』的ユーモアを利かせて描写してほしい。そこでいきなり日本刀を持った男衆たちに惨殺とかされる場合は園子温監督でいい。BGMはもちろん『バラが咲いた』。是非とも凄惨に殺してもらいたい。

あとは昔付き合って一か月足らずで別れた男に、寝ている時に勝手に服を脱がされて何やら始めようとしている時に目が覚めたシーン。これは「警察24時」とかで特集されたのちに逮捕されて死刑になっていてほしい。まあ撮ってもらうなら引き続き園子温監督だろうが、彼よりも先にAV監督からオファーが来そうだ。謹んでお断りさせて頂く所存である。

学生時代に暇すぎて近所の公園で昼下がりに一人でシャボン玉を吹いていたシーンとかも良さそうだ。いい感じにトチ狂っている。子どもは警戒心がないのでワラワラと寄ってきていた。『菊次郎の夏』とかにありそうなので北野監督にお願いしたい。もちろん遠巻きにこちらを不審そうに伺うお母さん方もセットで。1ボトル吹き終わったら飽きたので残りはそのへんの子どもにあげたが、あのシャボン玉は活用されたのだろうか。お母さんに「捨てなさい!そんなもの」と奪われてなければいいが。

暫定版ベスト3

1.半裸で換気扇の下でタバコを吸うシーン

2.昼下がり公園で一人シャボン玉を吹くシーン

3.しゃっくりを我慢してたら男衆に惨殺されるシーン

まあこんな感じだろう。

3に至ってはもはやただの妄想になっているが、ありそうなので入れておいた。吸う、吹く、止める、という軸で設定した。いずれまた更新したい。

「あ」の一文字で一体いくら稼ぐんだ

現在東京のお台場でやっているデザインあ展に行ってきた。同期の友人と三人で行った。「デザイン展行くとか業界人っぽくない?ひまだし」という、意識が低すぎて地下に潜ってしまったタイプの滑り出しだった。

わたしは予定を前々から立てていると前日や当日の朝に面倒になってしまう性質の悪い人間で、今回も例に漏れず若干面倒になっていた。面倒になった結果当日の朝四時頃までベッドの中で、犬が肉を食べたり人が肉を食べたりするyoutubeの動画を観ていた。

「絶対朝眠いやん、だる」

全方位自分のせいだが逆切れの境地に至っているのでそこには意識が及ばない。より良く生きる、という普遍的な価値に対する一種のアンチテーゼ存在としてわたしは日々を生きている。でも朝はすごく早く目が覚めた上にとてもすっきりと起きれた。自分が思う以上に楽しみにしていたようだ。バカなのかこいつは。

12時に新橋で待ち合わせをした。遠足の時だけ早く来るタイプのアホと同じくわたしも一番最初に到着したので、適当に喫茶店に入った。方向音痴なのでおしゃれな喫茶店などを探しているうちに迷うのが怖くて、一番最初に目についた、看板のカラーの組み合わせがおかしい上にどことなくくすんでいて店内はたばこ臭くて椅子のカバーがあちこち破れて綿が飛び出している、古き悪き喫茶店に入った。頼んだアイスティーは紅茶の香りがする水だった。

しばしして友人の一人からグループLINEで「いまどこ?」と連絡が入る。店名と位置情報を送ったが分からないようだった。

「ゆりかもめ駅入り口前のエスカレーターを新橋駅側に降りて、『行きたくないな~嫌だな~汚いな~』と思う方向に進んだら、『入りたくないな~嫌だな~汚いな~』と思う喫茶店があるので、そこにいます」

と返事をした。

「分からせる気ないやろ」と返事が来たが、二人ともその説明で無事わたしのいた喫茶店に辿りついたので、あの状況での最適解を叩き出していたようだ。

デザインあ展はとても混雑していた。整理券を受け取って、入場まで時間があったので写真撮影可能ブースで写真を撮ることにした。所謂インスタ映えのためのブースである。

「インスタ映え狙っていこうよ」とわたしが言う。

「恥ずかしいやん」と友人が答えた。

なにを言うか!一喝である。インスタ映えというと10代の子たちのもので、20も後半に差し掛かった女が本気でゴールを獲りに行くようにバエを獲りに行くことは滑稽だとするような風潮があるが、そもそも10代なんぞこちらから言わせて貰えば何もしなくともバエている。加工なんかしなくても顔にシミや皺なぞないし、仮にそばかすやニキビがあっても、太陽の下で笑って楽しそうにしていればバエることができる。雷雨の下でやっててもバエている。いや雷雨の下で笑ってんのはそれはそれでアートになりそうですね。 とりあえず、言いたいことは、わたしたちのようなアンチエイジングというワードに現実味が生まれてきたあたりの世代こそ、本気でバエを狙いに行くべきだ、ということである。

「バエを全力で狙うくらいで、結果的にはちょうど良くなるやんか」

「確かにそうかも」「バエ狙っていこっか」

書いてて思ったが、三者三様にバランスよくバカである。

そんな感じでバエを獲りに行った結果ちょうど良い感じに仕上がった写真などを撮った。ちなみにこのインスタ映え演説が尾を引いたせいで、昼ごはんに入った何の引っかかりもない定食屋で、何の引っかかりもない定食を前に三人で一生懸命自撮りをするという地獄の時間が10分ほどあった。改めて写真を見返してみても、この時の写真だけは「何なんだろうこれは」という感想しか湧いてこない。バエにも限界があるだろう。

デザインあ展自体はまあまあ楽しかった。入口付近のブースでは、卵の焼け具合を精巧に再現した作品(食品サンプル)や、弁当の中身をカテゴリごとに分けて展示した作品(食品サンプル)や、それら食材を詰めた作品(弁当の食品サンプル)などが並べられていた。全てスーパーに行けば見れる。

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展示を進んでいくうちに、日常に存在するありふれたものをあえて分解・統一・変形させることで、普段は見過ごしている「物」そのものが持つデザイン性や概念といったものを確認していくようなコンセプトなのかな、と自己解釈できるようになったが、最初は本当に訳が分からなかった。1600円払って食品サンプル見せられてる~と思った。周りのカップルたちは口々に「全然わかんない」「どういう態度で見たらいいのコレ」「意味わかんなくない?」と言っていたが、その口で「でも面白いね」とも言っていた。一種の防衛反応があちらこちらで働いていた。もしくは本当に面白いと感じていたのなら、それはデザインあ展が楽しいのではなく、恋人と一緒にデザインあ展に来ているという状況が楽しいのだと思うので、認識を改めた方がよい。1600円、かかるわけですし。もっと良い使い道、多分あるはず。

一通り見終えて、出口近くのおみやげブースを見た。「あ」の文字が模られたフェルトで出来たストラップや、「あ」と書かれたハンカチなどが、1800円とか2500円とかで売られていた。わたしは「あ」の形をしたシールが五枚入ったものを一つ買った。600円くらいした。

「千と千尋の神隠し」の千尋は、親をブタにされた挙句、「ひ」と「ろ」の二文字を奪われて数字の単位に強制的に改名された上にただ働きを強いられているのに、片や「あ」の一文字が1000円も2000円もするのである。

デザインって分からない。そんなことを思う平日の昼下がりだった。

職場でずっと股間をまさぐる、刑務作業にも近い何か

最近ちょっと太った。人には指摘されない範囲内ではあるが、当社比で確実に肉がついた。わたしは太るとまず顔と腹に肉がつくタイプで、おまけに腹に関しては長いこと寝るか酒を飲むかの不摂生な生活を送っていたこともあり筋肉がほぼ無いため、太れば太っただけ何の抑圧も受けず前に出てくる。ほぼ、と言いましたが「ゼロ」と言っても全く問題はない。「ゼロ」という虚無の概念が古代インド人によって発見・定義され、それにより数学史は飛躍を遂げたが、その恩恵にわたしも与ろうと思う。古代インド人もまさかわたしの腹肉の説明と、人類最大の発明とも言われる0という概念を結び付けて語られる時代が来るとは夢にも思わなかったでしょう。発展は賢者にも愚者にも平等に訪れる。

それで、普段からよく着用している何の変哲もない黒いスキニーパンツがあり、職場にもよく着て行っている。裾が切りっぱなしになっている、さりげないセンスを伺わせるパンツだ。同期からも「お前ジーンズぼろぼろだぞ、早く新しいの買えよ」と評判高い。そのパンツが、太ったせいで少し窮屈になってしまった。といっても全く問題なく着用できるし、痩せないとなあと思いながら履き続けているわけだが、問題はこのパンツのジッパーの滑りがとても良いことだ。

念のため言っておくが、わたしは滑りの良いジッパーというものがとても好きだ。力を入れなくても、手の動きたい方向にスッと付いてきてくれる。わたしはそういうジッパーをとても好ましく思う。主人の背後に伏目がちに佇み、欲しいと思ったタイミングでちょうど良い温度のダージリンを華美ではないが手に馴染むカップで持ってきてくれる、英国執事的な紳士さが滑りの良いジッパーにはある。

翻して、滑りの悪いジッパーのストレスといったらない。急いでいる時に限って何が引っ掛かっているのか石のように動かず、進むことも戻ることも出来ないジッパー。あれはもう家から出なさすぎて外出という行為に強迫的な恐怖を抱くようになった引きこもりと変わらない。力任せに動かそうとして最悪の場合ジッパーの噛み合わせが外れてしまったりすると、もうそのジッパーが付随するものが服であろうと鞄であろうと靴であろうと等しく「ゴミ」と呼ばれるようになる。そう考えると単なる機能・付属品の一部として捉えられていたジッパーこそが、ある物体が何たるかを定義づけることの重要な役割を担っているのかもしれない。すごいぞジッパー、ちゃんと動け。

それで、わたしのスキニーパンツをスキニーパンツたらしめている一部であるジッパーは、優秀な部類に入る方で、履くときにストレスを感じさせたことがない英国紳士なジッパーだ。ただ、滑りが良すぎて意図せぬタイミングで開いてしまうことがある。歩行や着席・起立などのちょっとした運動で勝手に開いてしまうのである。ただ、開くと言ってもこれまでは1センチ程度ずれてきてしまうくらいのものだったので、気付いた時にしっかりと引き上げておけば特に不自由もなく優雅なスキニーライフを送れていたのだが、太ったことでわたしの日常生活に暗雲が立ち込めつつある。

端的に言うと全開になる。歩行程度なら問題はないが、デスク作業の際にちょっと猫背になって腹肉で負荷などかけようものなら、もうフルオープン。試食販売のおばちゃん並みに開かれている。

開かれていた方が良いものは世間には沢山ある。情報、学問、人への親しみ、意識の高そうなセレクトショップのドアなどがそれである。だが、ジッパー、特にズボンについたジッパーに限って言えば、それは「開かれていてはいけないもの」に類される。ズボンのジッパーを「社会の窓」などと言うが、これは意識して閉じていなければいけない。やはりあらゆる他者と交錯する社会的場では、「閉じる」ということが大事になってくるのかもしれない。社会的/フォーマルな状況下においては、他者に対してある程度閉じていることが適切な振る舞いとされることをアメリカの社会学者アーヴィン・ゴッフマンは「儀礼的無関心」と名付け提唱したが、ズボンのジッパーは個人の社会に対峙する態度の象徴として機能しているのだろうか。

一度、そのパンツを履いてそれなりに長時間社内をうろつき、デスクに戻って席に着いた時何気なく目線を落とすとわたしの社会の窓が全開だったことがあった。「うそだろ」と思った。即座にジッパーを上げ戻し、そのスムーズさに英国紳士を感じつつ「どうして?」と思う。

今までずっと一緒に楽しくやってきたじゃない。どうして今になって、よりによってこんな時に、わたしを裏切るのよ。

優しさとはよく切れる包丁と似ている。いつもは心地よく自分を手助けしてくれる存在が、少し間違えば致命的な傷を与える凶器と化す。

わたしはそんなことを考えた。そして対策として、事あるごとに股間をまさぐってはジッパーがずり落ちていないか確認するようになった。ずっと信じていた存在に裏切られた痛みというのは人の意識レベルにまで浸潤してくるもので、デスクでの仕事中や立ち上がって喫煙やトイレに行く時はもちろん、長めのトップスを着ていてジッパーがそもそも見えないような服装の時ですら、トップスをたくし上げて社会の窓の開閉を確認するようになった。そして仮に閉じていたとしても、今一度しっかりと上までジッパーを引き上げる作業をしないと落ち着かなくなった。

もはやガスの元栓や鍵を閉めたかを何度も確認しないと気が済まない強迫神経症と限りなく近い何かになってきている。

かくして、職場でことあるごとに股間付近に手をやってはモゾモゾしている26歳の一人の女が誕生した。股間に手をやり、ゴソゴソする。頭では分かっている。普通にしていればそうそう開くことはないし、気になるならば離席時や人のいないタイミングで確認すれば問題はない。何ならズボンのジッパーが開いていることより、しょっちゅう股間に手をやって何やらやっていることの方が社会的評価には打撃が大きい。分かってはいるが、やるしかない。何かに追い立てられるようにやるその作業は、きっと刑務作業と似ている。