人間がへた

誰のためにもならないことだけ書きます。半径三メートルの出来事と、たまに映画と音楽。

きれいな映画を観た後にふと思い出される女になりたい

mol-74というバンドの「エイプリル」という曲を仕事中に聴いた。

綺麗な映画を観たあとに

ふと君を思い出した

 という歌詞があり、なんて良い歌詞なんだと感動した。

同時に、きれいな映画を観た後に思い出されるような女にわたしはなりたい、と思った。どんな女だ、綺麗な映画を観たあとに思い出されるような女は。全然わからん。

とりあえず綺麗な映画を観たあとに思い出される女になるべくその本質を探りたい。探った上で課題について考えたい。もちろん課題とはわたしである。課題しかない。「課題」で辞書を引くと「黒ずみ」と出てくる。

あと「綺麗な映画を観た後にふと思い出される女」「綺麗な映画を観たあとに「きみ」を思い出す男」は長すぎるので以下「綺麗映画女/男」と記述する。妖怪の名前みたいになってしまったが、細かいことはこの際気にしない。

「ぼく」はクラブになど行かない

まず「ぼく」という男を分析したい。

つまりターゲットである。市場と言ってもいい。ここがキチンとしていないといくらモノが良くても話が成立しない。わたしが血のにじむような努力の結果、綺麗映画女になっても、綺麗映画男にリーチしなければ意味がない。

例えば350mlの缶ビールを飲みながら「おねだりマスカッツ」を観て爆笑する男には、綺麗映画女のような知り合いなどいないし、よしんばいたとしても深い仲になれるわけがない。そもそもそんな奴は綺麗な映画を観ない。なのでこいつはターゲットではない。

あくまでもターゲットは「ぼく」。

綺麗な映画を恐らく一人で観るような人物だからそれなりに教養は深いだろう。受け身でコンテンツを消費するだけでなくそこから連想する想像力もある。アウトドアよりインドア派。本をよく読む。少ないが信頼に足る友人がいる。金木犀の咲く頃に「秋のにおいがするね」とか言うタイプ。寡黙な方だが、酒を飲むと饒舌になりよく笑う、そして一人称が「ぼく」から「俺」になる。でも三杯ビールを飲むと寝てしまうような男だ。

ビジュアルはどうか。

個人的にはオダギリジョーなんかに思い出してもらいたい。でもオダギリジョーはそこらへんで引っかけた女とセックスしてる最中に昔の女を思い出すタイプ(最悪なイメージである)なのでちょっと違う。知らないけど、多分そう。

松田龍平でもいい。でも松田龍平は真面目に映画観そう。真面目に映画観て、真面目に「この映画のどこが綺麗だったか」ということを考えてしまう。入り込む余地がない。大体松田龍平には安藤サクラという素晴らしい女優の伴侶がいる。オダギリジョーにもいるけど。松田龍平には安藤サクラのことだけを考えていてほしい。安藤サクラと映画について語り合っていて欲しい。

良い人物が思い浮かばないので、エグザイルのNAOTOを暫定的にビジュアルイメージに規定する。

恐らくNAOTOはクラブでテキーラを飲みながら例のR.Y.U.S.E.Iダンスを有象無象に見せつけ、面積の少ない服を着た女と寝て早朝に渋谷のゴミになっている、綺麗映画男とは対極にいるタイプだろうし(最悪なイメージである)、「ぼく」は自分の名前をアルファベット表記することなど断じて無いが、仕方ないのでガワだけ借りる。顔がタイプなので。

「綺麗な映画」とは

これは割とすんなり決まりそう。まず邦画。なぜならハリウッド映画観た後に想起される女は多分日本人ではない。さすがに国籍は変えらんない。

なので邦画は第一条件、恐らくは何気ない日常に潜む愛しさや切なさを、雪をすくうような優しさで描き出した映画だろう。

最近観た邦画で良かったのは『万引き家族』だが、あれで想起される女は手癖が悪そうなので嫌だ。それに『万引き家族』を観てふと思い出される女は確実に安藤サクラであるし、安藤サクラを想起するのは松田龍平しかいない。結局その二人で循環してしまう。やはり入り込む余地がない。

『愛の流刑地』も違う。確実に綺麗映画女は昔不倫していた女になる。島耕作的世界観は持ち込みたくない。

まあ『あの夏、いちばん静かな海。』か『ジョゼと虎と魚たち』あたりがいいんじゃないか。ちょっと面倒になってきている。早く綺麗映画女になるための解が欲しい。綺麗映画女の方程式を証明したい。ここで立ち止まっていられない。

「ぼく」と「きみ」の関係

そもそもこの二人はどんな関係だったのか。「思い出す」というくらいだしそれなりに長いこと会ってないんだろう。歌詞はこう続く。

綺麗な映画を観たあとに

ふと君を思い出した

あの日をなぞれば何となく

また戻れそうな気になって

なった

映画を観たあと、「ぼく」ふと「きみ」を思い出し、「きみ」と過ごした「あの日」に思いを巡らす。

「また戻れそうな気になって」のあとの「なった」というところで、「ぼく」の思考は一気に過去に引き戻される。ふとしたきっかけで思い出した女との日々は、「ぼく」にとってはまだ遠い日の美しき思い出にはなっていない。

サビにはこうある。

奇跡のように出会って

必然のように別れて

映画みたいにはいかない結末に

僕は何を思う

 問題が生じた。

二人が別れたという結末が「映画みたいにいかない」ということは、映画自体は円満に終わっているということだ。『ジョゼと虎と魚たち』は破綻しているし、『あの夏、いちばん静かな海。』に至っては男の方が死んでいる。これでは映画観た後に「命があるだけいいか」となってしまう。情緒が生まれない。

『今度は愛妻家』に設定し直そう。これは女の方が死んでいるが、この際綺麗映画女は既に死んでいて構わない。思い出せりゃそれでいい。とにかく早く綺麗映画女になりたい。正気を保っていられない。

二人の関係の話に戻そう。

順当に考えて二人は付き合っていて、何等かの理由で別れたのだろう。奇跡のように出会った、とあるがここは言葉通りに捉える必要はない。

「奇跡のように」を事実とすると、パン咥えて走る女と曲がり角でぶつかったとか、本屋で本を取ろうとしたら偶然手が触れあったとか、途端にIQ低めの少女漫画世界感が流入してきてしまう。「りぼん」のお話になってしまう。すごい頑張っても「マーガレット」レベルが関の山の知性。

パンに至っては平成という時間軸さえ飛び越えて昭和にいってしまっている。「奇跡のやうに」と記述しなければならなくなる。ジジイとババアの話になる。これはいけない。なので奇跡は平凡でいい。きみと出会えたことが奇跡のように感じられる、という「ぼく」の気持ちがこのような表現になったということに過ぎない。

とりあえず二人は付き合って別れた。ここまでは良い。大変シンプルだ。しかし別れ方とその理由は精査の必要がある。例えば男が浮気して振られた、だと事情が変わる。性欲が絡んだ途端に俗世的になるし、単純に「お前が悪い」で終わる。余韻もクソもない。別れの理由は「すれ違い」とかでいい。物事はシンプルな方がスピードが生まれる。

以上を整理すると、二人は何となく付き合いだし、ふとした時に相手を「好きだなあ」と思い、そんな時だけちょっと長めのキスをして「急にどうしたの?」と笑われる。

「何でもない」

「ふーん」

そういう会話が交わされて、またお互い手元の本に目線を落とす。そういう関係だ。

つまりわたしは綺麗映画女になるためにはまず綺麗映画男とお付き合いをして、唐突に「好きだ」と思って長めのキスをし、そしてすれ違いによって別れなければならない。

ハードルは高いが、努力なしに人は何かを成し得ない。

 

いい加減長くなってきたので一旦区切る。

「綺麗な映画を観たあとにふと思い出される女」の何がわたしをこんなに駆り立てるかは分からないけど、とにかく綺麗な映画を観た後に思い出されたい。

自分の要求を通すために地べたの汚さも厭わず、全部の文字に濁点をつけて全身で泣け叫ぶ子ども。欲望具合でいうとあれに近い。ところで駄々をこねる子どもというのは何故一様にあおむけに転がるのか。うつぶせのパターンを見たことがない。

そういえば夏になると現れる、死んでる振りをして横を通り過ぎるとジジジジッと断末魔を上げてねずみ花火の如く足元をはい回り人間を翻弄するセミ(セミ爆弾と呼んでいる)。あれは仰向けだったら本当に死んでいると聞いたことがある。子どもが仰向けになるのは「要求を叶えねば死ぬ」という覚悟の表明なのか。子どもを死んだセミと同列に扱うことの倫理観の方を気にするべきか。