人間がへた

誰のためにもならないことだけ書きます。半径三メートルの出来事と、たまに映画と音楽。

きれいな映画を観た後にふと思い出される女になりたい②

 前半記事で松田龍平の伴侶が安藤サクラだ安藤サクラだと連呼しているが、松田龍平の妻は太田莉菜だった。安藤サクラの夫は江本佑だった。友人の指摘で気付いた。大変に恥ずかしい。にわかが丸出し。アホの展示会である。ちなみに友人は太田莉菜が大好きらしい。わたしも好き。

さて、綺麗映画女になる話に戻ろう。これだけ読むと妖怪にでもなるつもりの頭のおかしい女でしかない。革命家には常に孤独と無理解がつきまとう。

いよいよ綺麗映画女になる

大体ターゲット(綺麗映画男)と、そこで作らねばならない関係は整理できた。あとはもう綺麗映画女のイメージを固めるだけである。いよいよケーキの盛り付け部分。小さい時何度か母と一緒にケーキを作ったことがあるけど、イチゴ乗せたりクリーム乗せたりしてる時が一番楽しかった。多分これはわたしだけじゃないと思う。大体の子どもはケーキに飾り付けするのが好き。飾り付けというか、クリーム絞んのが好き。あととりあえずアラザンとかカラースプレーチョコを振り掛けたがる。

ちょっと脱線する。ケーキの話してたらケーキの話をしたくなってきた。

何なんだろうこの日本語は。うんちしてたらうんちしたくなってきた、みたいな話。どんだけうんち出すんだ、便秘か。でも時々ありません?うんちしたあとすぐうんちしたくなること。人はこれを残便と呼ぶ。やめよう。わたしはケーキの話がしたいのであってうんちの話は別にしたくない。

洗練されたデザインの一つの形は、装飾を徹底的に排除したものである。「機能美」という言葉もあるように、必要最低限ただそれだけ、という無駄の排除は美しさを生む所作なのである。その点、子どもは無駄の排除というところからは最も遠い場所にいる。足しゃいいと思ってる。クラッシュナッツとかアラザンとかカラースプレーとか、とりあえずあるもん皆使う。それで満足する。結果統一感を一切感じさせない大阪ミナミのようなケーキが出来上がる。それでも子どもは誇らしげだ。しかしその自分の作品への根拠なき誇らしさが、芸術家への第一歩なのかもしれない。どうでもいい。

綺麗映画女に話を戻そう。まず確信している点が一つある。綺麗映画女は絶対に良い匂いがする。タバコとか吸わない。お酒も飲まない。飲んでもシャンパンを一杯、特別な日にだけ口を濡らすように飲むのだろう。良い匂いどころか何の匂いもしないのではないか。つまるところわたしは綺麗映画女は生活感の無い女だと思っているんだろう。これは理解されるんじゃないか。

生活感の無い女。印象の薄い女。一緒にいた時の回りの風景や会話は思い出せるのに、顔や声が靄がかったようにおぼろげな感じ。

だってすげー思い出されるのは何か違う気がする。「あいつ寝る時の歯ぎしりうるさかったな」とか「酔って吐いて居酒屋の手洗い場詰まらせてたな」まで思い出してしまうと曲のトーンまで変わってきてしまう。途端に銀杏ボーイズ感がでてくる。何度も言うが情緒が無い。

そもそもそんな思い出のある女は綺麗な映画を観た後に想起される女ではない。タバコのヤニの臭いとか朝5時の歌舞伎町の臭いなどが思い出トリガーになるような女だ、そいつは。そういう女を思い出すための映画なら『ナニワ金融道』だろう。基本的にVシネであることは間違いない。何の手本にもならない。引っ込んでいて欲しい。

わたしは綺麗映画女になれるのか

さてここまで来たが、わたしは綺麗映画になれるのだろうか。結論から言おう。なれない。悟った。だいぶ前に気付いた。知ってた。なれない。

そもそも一日にタバコを一箱は吸い、「糖質ゼロだから」と言い訳をしてハイボール(濃いめ)を飲み腐り、翌日記憶を失ったままあわよくば迎え酒をする女などが綺麗な映画を観た後に思い出してもらおうなどと、おこがましさの極みでしかない。

そもそもわたしは「きみ(綺麗映画女)」を勝手に女だと決めつけて話をしているが、「きみ」が女であるとはどこにも断定されていない。「きみ」が男である可能性も大いにあるわけだ。その場合この曲はマッキー的世界観になる。わたしが出る幕など一ミリも無い。

そもそもこんなブログで長々と映画綺麗女になるべく分析する女は綺麗映画女には絶対なれない。彼女たちは何もせずとも綺麗映画男に思い出してもらえるはずだ。月と太陽が常に対照されることに理由が必要ないように、綺麗映画男と綺麗映画女はただそこにある、そういう存在だ。多分。知らんけど。

綺麗映画女になりたいという欲望が生まれた瞬間に、綺麗映画女になることは永遠に不可能になる。哲学みたいな話ですね。哲学の本読んだあとに思い出してください。