人間がへた

誰のためにもならないことだけ書きます。半径三メートルの出来事と、たまに映画と音楽。

人は大人になるとうんこを拾うようになる

会社で内内の会議をしていて、話もまとまり皆パソコンを閉じた。誰が始めるともなしに雑談が始まり、何の流れだったか「泣いてしまう時」の話になった。

わたしが大学二回生だった頃、特に病んでいたわけでもないのだが、よくある洋服洗剤や柔軟剤のCMで、青空晴れ渡る空の下で母親と幼い子供が真っ白なシーツをパンッ!とやって干すシーンや、真っ白な洗い立てのタオルに子どもが頬をうずめて「やわらか~い」とやる、洗剤CM恒例のアレを見る度に号泣していた時期があった。

何故そんな時期があったか分からないが、とにかく涙腺がガバガバの時代があった。明治安田生命のCMなんかは当然号泣。太陽が東から上り西に沈んでいくことと、わたしが明治安田生命のCMを見て泣くことは等しく自明なことであった。もはやパブロフの犬。たまにテンションが上がりすぎて嬉ションする犬がいるが当時のわたしはそれと似たようなもんだった。小田和正流れたら泣く、そういう生き物だった。まあさすがにおしっこは漏らしてないですが。かれら人類の友としての地位を確立したと思って呑気に口呼吸しながらしっぽぶん回してますが、ゆうても獣なのでね。獣とは区別して頂きたい。口で体温調節とかしないし、わたし。

保険のCMで泣き、真っ白なシーツで泣き、ACのCMで泣き、バファリンのCMで泣き、あとはあれですね、自分でもそろそろやべえなと思ったのがタケモトピアノの「ピアノ売ってちょぉぉ~だい」のやつで泣いたとき。号泣しながら自分に引いた。通常であれば「何度見ても狂ってるなこのCM」とか「このCMで赤ちゃん泣き止むってほんとかな」とかその程度の反応が今や号泣である。

後ろで踊ってるわけわかんないタイツ着た女性たちもダンサーとして粒粒辛苦の努力を積み重ねて遂にCM出演。彼女らの母や父はタケモトピアノのCMが流れる度に膝を整えてTVに向き合い娘の姿を目で追うのだろう。そう考えて泣いた。

「はあ?」である。もう面倒なのでこの話はいい。

わたしの告白を聞き、「それ単純に病んでんだよ、申し訳ないけども」と先輩が言い、「そういえば」と続けた。「俺も泣けるCMあるんだよ」

これである。

www.youtube.comスムーズに話を進めたかったがちょっと待ってほしい。実はわたしは上記の鈴与CMを知らなかったので、代わりに脳内補完で「こんな感じかな」と思い浮かべていたのが以下のCMだ。

www.youtube.comその先輩は「子どもが無邪気に未来について考えたり、子供らしい勘違いをしたりしてたら、すげえ可愛いんだけど、でもいつかこの無邪気さってなくなっちゃうんだよなあって思うと泣けちゃうんだよ」とまあまあ大人の闇を感じる理由を訥々と述べていたが一旦いい、その話は。

下の西鉄CMなら確かに泣ける。納得である。というかわたしも完全に*イメージ:西鉄鉄道CM、で想像していたので「ああ~あれ泣けますよねえ」とかアホ面で答えていた。泣けるのはお前の頭だ。

初めの鈴与CMを今一度観てほしい。凪いだ海。真っ青だ。すると何だか笑いを堪えているかのような間の抜けた女の声で「見たことないぃ~ものぉ」と歌が始まる。 見たことないものがどうした?どうなるんだ?歌の続きを気にしつつ画面につい食い入ると、「見てみぃぃた~~」のところで凪いだ海から突然クソデカいクジラが半回転のひねりを加えながらズバアアーーーーーーー出てきて「見てみたいや」の「た~~~いやぁ」の収束に合わせてドッパァァァーーーーーーン!!!!!着水。

シンプルに爆笑である。笑いを生み出す仕組みは様々にあり、その中に「静と動の急激な変化」や「不条理さ」などがあるが鈴与CMはこの二つを確実に満たしている。凪いだ海から突然の半回転ルッツでクジラがズバアアアーーーーーーーーードッパァァァアアだ。笑わない訳がない。ごっつ時代のダウンタウンのコントに見られたナイフのように鋭い静から動への移り変わりがここにはある。

そもそもクジラは存在そのものが不条理である。でかすぎる。子どもに「おっきい動物ってなにかな?」と聞いてみてほしい。恐らく十中八九「ゾウ!」と笑顔を弾けさせて答えるはずだ。ゾウは確かに大きいが、温厚(そう)で、大らか(そう)で、そして動物園に行けば会える。身近だからこそ、大きさが何十倍、いや何千倍と違う小さな子どもからもゾウは愛され、にんじんやら林檎やらを手渡しで与えて貰えるのである。

だがクジラはどうか。そもそもクジラは普段は沖の海を回遊しているので直接見る機会など大人でも中々ない。金と手間をかけてホエールウォッチングにでも行くしかない。行動が制限される子どもなど尚更。なんなら「クジラ?しらない!」である。クジラを既知の子どもはクジラを呼び捨てになどしない。「クジラさん」、もしくは礼節を弁えた子どもなら「クジラさま」である。当然だが手渡しでそこらへんの草など与えようとしない。ただその大きさにひれ伏し、忘れかけていた被捕食者の恐怖と惨めさと羨望が綯い交ぜになった震える呼吸がクジラに漏れ聞こえてしまわぬよう、ただ唇を噛みしめてクジラが通り過ぎるのを待つことしか出来ない。

食物連鎖の頂点に君臨したと奢り高ぶった人類に、異議を唱える存在がクジラである。クジラは我々に大きさというものに対しての無力をその身を持って教えてくれる。少年ジャンプなんかで小さな者が大きな者に勝利するストーリーは溢れているが、所詮子ども騙し。アリが剣を持とうが銃を持とうが踏みつぶされて終わりなように、わたしたちもクジラに勝つ術など持たない。アイヌはこの世にいる動物たちをカムイ、つまり神や、神の贈り物として敬い、自然と共存する生き方を選択した。わたしも彼らに倣って、以降は敬意をこめてクジラをアイヌ語の「フンぺ」と記述したい。

話を戻そう。その神なるフンぺがアホみたいな女の歌に合わせて、いやフンぺが合わしてるわけじゃないが、海から半回転ルッツをしながらズバアアーーーーーーーーだ。笑わない方が失礼。ズバアアーーーーー!!!からのドッパアァァァーーーーーン!!!フィギュアスケートなら100点、飛び込みなら0点のフンぺによる演技である。

「見たことないもの 見てみたい」と歌っているが、今そこに見えているものは何だ。目の前で今まさに見たことないものが大はしゃぎ中だ。フンぺが半回転ルッツからの0点着水する姿など誰が見たことあるか。歌ってないで前を見ろ。目を開け。括目せよという言葉と結婚して根性と歌声を叩き直して貰いたい。

 

話がずいぶん逸れましたがそういう感じの話があってですね。大人になることとは何かって話になった時に「大人になるとうんこ踏まなくなるよね」とフンぺCMで泣いた先輩が言ったわけですよ。「子どもは前を見て走っているから下が見えなくてうんこ踏んじゃうけど、大人は下ばっか見て歩いてるからうんこ踏まないんだよ」

「いや踏みますよ」と。満場一致で「踏むよ」と。一人の先輩なんかは「なんなら飼い犬のうんこ膝で踏みますよ」と言うわけです。踏むのかあお前ら、となった時にわたしが言うわけですよ。

「わたしなんかトイレから飛び散った飼い猫のうんこをそれだと気づかないで拾ったりしますよ」

「得体の知れねえもん素手で拾うなよ」

その通りですね。