人間がへた

誰のためにもならないことだけ書きます。半径三メートルの出来事と、たまに映画と音楽。

職場でずっと股間をまさぐる、刑務作業にも近い何か

最近ちょっと太った。人には指摘されない範囲内ではあるが、当社比で確実に肉がついた。わたしは太るとまず顔と腹に肉がつくタイプで、おまけに腹に関しては長いこと寝るか酒を飲むかの不摂生な生活を送っていたこともあり筋肉がほぼ無いため、太れば太っただけ何の抑圧も受けず前に出てくる。ほぼ、と言いましたが「ゼロ」と言っても全く問題はない。「ゼロ」という虚無の概念が古代インド人によって発見・定義され、それにより数学史は飛躍を遂げたが、その恩恵にわたしも与ろうと思う。古代インド人もまさかわたしの腹肉の説明と、人類最大の発明とも言われる0という概念を結び付けて語られる時代が来るとは夢にも思わなかったでしょう。発展は賢者にも愚者にも平等に訪れる。

それで、普段からよく着用している何の変哲もない黒いスキニーパンツがあり、職場にもよく着て行っている。裾が切りっぱなしになっている、さりげないセンスを伺わせるパンツだ。同期からも「お前ジーンズぼろぼろだぞ、早く新しいの買えよ」と評判高い。そのパンツが、太ったせいで少し窮屈になってしまった。といっても全く問題なく着用できるし、痩せないとなあと思いながら履き続けているわけだが、問題はこのパンツのジッパーの滑りがとても良いことだ。

念のため言っておくが、わたしは滑りの良いジッパーというものがとても好きだ。力を入れなくても、手の動きたい方向にスッと付いてきてくれる。わたしはそういうジッパーをとても好ましく思う。主人の背後に伏目がちに佇み、欲しいと思ったタイミングでちょうど良い温度のダージリンを華美ではないが手に馴染むカップで持ってきてくれる、英国執事的な紳士さが滑りの良いジッパーにはある。

翻して、滑りの悪いジッパーのストレスといったらない。急いでいる時に限って何が引っ掛かっているのか石のように動かず、進むことも戻ることも出来ないジッパー。あれはもう家から出なさすぎて外出という行為に強迫的な恐怖を抱くようになった引きこもりと変わらない。力任せに動かそうとして最悪の場合ジッパーの噛み合わせが外れてしまったりすると、もうそのジッパーが付随するものが服であろうと鞄であろうと靴であろうと等しく「ゴミ」と呼ばれるようになる。そう考えると単なる機能・付属品の一部として捉えられていたジッパーこそが、ある物体が何たるかを定義づけることの重要な役割を担っているのかもしれない。すごいぞジッパー、ちゃんと動け。

それで、わたしのスキニーパンツをスキニーパンツたらしめている一部であるジッパーは、優秀な部類に入る方で、履くときにストレスを感じさせたことがない英国紳士なジッパーだ。ただ、滑りが良すぎて意図せぬタイミングで開いてしまうことがある。歩行や着席・起立などのちょっとした運動で勝手に開いてしまうのである。ただ、開くと言ってもこれまでは1センチ程度ずれてきてしまうくらいのものだったので、気付いた時にしっかりと引き上げておけば特に不自由もなく優雅なスキニーライフを送れていたのだが、太ったことでわたしの日常生活に暗雲が立ち込めつつある。

端的に言うと全開になる。歩行程度なら問題はないが、デスク作業の際にちょっと猫背になって腹肉で負荷などかけようものなら、もうフルオープン。試食販売のおばちゃん並みに開かれている。

開かれていた方が良いものは世間には沢山ある。情報、学問、人への親しみ、意識の高そうなセレクトショップのドアなどがそれである。だが、ジッパー、特にズボンについたジッパーに限って言えば、それは「開かれていてはいけないもの」に類される。ズボンのジッパーを「社会の窓」などと言うが、これは意識して閉じていなければいけない。やはりあらゆる他者と交錯する社会的場では、「閉じる」ということが大事になってくるのかもしれない。社会的/フォーマルな状況下においては、他者に対してある程度閉じていることが適切な振る舞いとされることをアメリカの社会学者アーヴィン・ゴッフマンは「儀礼的無関心」と名付け提唱したが、ズボンのジッパーは個人の社会に対峙する態度の象徴として機能しているのだろうか。

一度、そのパンツを履いてそれなりに長時間社内をうろつき、デスクに戻って席に着いた時何気なく目線を落とすとわたしの社会の窓が全開だったことがあった。「うそだろ」と思った。即座にジッパーを上げ戻し、そのスムーズさに英国紳士を感じつつ「どうして?」と思う。

今までずっと一緒に楽しくやってきたじゃない。どうして今になって、よりによってこんな時に、わたしを裏切るのよ。

優しさとはよく切れる包丁と似ている。いつもは心地よく自分を手助けしてくれる存在が、少し間違えば致命的な傷を与える凶器と化す。

わたしはそんなことを考えた。そして対策として、事あるごとに股間をまさぐってはジッパーがずり落ちていないか確認するようになった。ずっと信じていた存在に裏切られた痛みというのは人の意識レベルにまで浸潤してくるもので、デスクでの仕事中や立ち上がって喫煙やトイレに行く時はもちろん、長めのトップスを着ていてジッパーがそもそも見えないような服装の時ですら、トップスをたくし上げて社会の窓の開閉を確認するようになった。そして仮に閉じていたとしても、今一度しっかりと上までジッパーを引き上げる作業をしないと落ち着かなくなった。

もはやガスの元栓や鍵を閉めたかを何度も確認しないと気が済まない強迫神経症と限りなく近い何かになってきている。

かくして、職場でことあるごとに股間付近に手をやってはモゾモゾしている26歳の一人の女が誕生した。股間に手をやり、ゴソゴソする。頭では分かっている。普通にしていればそうそう開くことはないし、気になるならば離席時や人のいないタイミングで確認すれば問題はない。何ならズボンのジッパーが開いていることより、しょっちゅう股間に手をやって何やらやっていることの方が社会的評価には打撃が大きい。分かってはいるが、やるしかない。何かに追い立てられるようにやるその作業は、きっと刑務作業と似ている。