人間がへた

誰のためにもならないことだけ書きます。半径三メートルの出来事と、たまに映画と音楽。

駅構内の吊り広告に人間の一生を見る

夏頃、仕事で打ち合わせに赴くためにある駅に降り立った。

駅は都心からは外れていて、時間がゆっくりと流れているような下町情緒的な雰囲気のある街にあった。わたしは東京は隅から隅まで都会だと思っている節があるので、東京でも電車で30分そこら移動すればこんな街があるんだなあ、と感慨深かった。

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いつものように駅内の広告を眺めながら歩く。この業界で働いていると、つい広告に目がいくようになる。わたしは元々好きで広告業界に入ったので、広告に意識して歩くことは習慣化していた。初めて訪れる街でも、駅構内の広告を見れば住民や利用者の層を何となく把握できる。この街に住み、毎日駅を利用しているのがどんな人々なのか、想像しながら見知らぬ街を歩くのも、また乙なものである。

改札を抜けて出口に向かって歩く。小さな駅なので、目と鼻の先に地上への階段が見えた。無意識に目線を上げて天井から吊り下げられた広告のボードを見る。

「パチンコ」「パチンコ」「パチンコ」という並びで広告が出ていた。

普段は広告を見ても、大抵の場合は何も感じずに通り過ぎていく。多くの人の広告に対する態度と変わらない。ふーん、てなもんである。

しかしパチンコ広告が三連発であった時点で少し面白かった。わたしはパチンコを打ったことはないが、多少は知識がある。「広告も連チャンしてら」と思った。小さな街で娯楽も少なそうなので、パチンコはその一翼を担っているのかなあ、などと考えながら続く広告に目をやる。

「歯槽膿漏クリニック」「糖尿病治療専門病院」の文字が目に入る。

ああ確かに高齢層が多そうだもんなあ。パチンコも高齢者の客に支えられてんのかなあ。それにしても覇気を感じさせない広告が続くもんだわ、と歩みを進める。出口はもうすぐそこだ。最後の広告が手前に吊られている。

葬儀屋の広告だった。さすがにここで噴き出した。いくらなんでも露骨すぎる。よりによって「パチンコ」「歯槽膿漏」「糖尿病」「葬式」の順で広告を出すか。悪意を感じずにいられない。糖尿病、治ってないし。死んでるし。ヤブ医者やんけ。そういうことを一瞬で考えた。

しかも出口の手前に葬儀屋の広告を配置するか。ただの出口なのに、くぐるのを躊躇ってしまう。これ、もしかして今世からの出口なんじゃないの? 冥土への入り口とも言うんじゃないの?と。

この広告群やその並びが、何かを意図しているわけではないことは分かる。単純に駅の主利用者層が広告主のターゲットに沿うもので、たまたまこういう並びになったのだろう。しかし偶然の積み重なりが、見事に「一人の人間が死にゆくまでの過程」という言外のメタ・メッセージを引き連れてきている。

おまけに、これは完全に偏見で失礼極まりないことを承知で書くが、「パチンコ」と「歯槽膿漏」「糖尿病」の間に妙な親和性があるのもいけない。確かにパチンコに通い詰めている高齢者は、歯槽膿漏も糖尿病も患ってそう、と納得してしまうのだ。単発的に頭に浮かんだ考えに、勝手に肉付きがなされていく。葬儀屋の広告が「少額家族葬」を売りにしていたのも、物悲しさを強調した。

独立した二人の子どもも、家庭を作り郊外に家を建てたそうだが、とんと実家には寄り付かない。孫の成長は、一年に一度届く年賀状で知る。暇を持て余して、若い時分には見向きもしなかったパチンコにハマり、首を突き出すようにして日がな一日パチンコ台を見つめる。ビカビカと光る「大当たり!」という文字と、安っぽい大音量のBGMだけが唯一の生活の慰めだが、時々、それすらも嘘っぽく感じられる。最近、体調もあまり良くない。歯が痛くて食欲も無いし、数年前に糖尿病が発覚して毎週薬を貰いに行くあのクリニックも、果たしてどれだけ役に立っているのか…。

ある日、新聞配達員が異変に気付く。ポストに数日分新聞が溜まっている。おずおずとインターホンを鳴らす。返事はない。ドアノブを回すと、ドアが開いた。名前を呼び掛けてみる。やはり返事はない。シン、とした空気だけが、暗闇の向こうに広がっている…。

ここまで考えて泣きそうになって辞めた。

とにかく、駅構内に広告を配置する人は、並びまできちんと考えてください。人々の頭上に、人間の生涯ファネルを示さないでください。あと黒ずみは、単なる広告の並びでここまで妄想を膨らまして全世界発信するのをやめてください。