人間がへた

誰のためにもならないことだけ書きます。半径三メートルの出来事と、たまに映画と音楽。

肉屋のキャラクターをさせられている牛や豚の悲哀たるや

よく焼き肉屋や肉系の居酒屋で牛や豚を店のビジュアルキャラクターにしているところがある。あれはどうなんだ。見かける度に思う。適当に画像を拾ってきたがこういうやつだ。

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キャラクターにされている豚や牛もニッコニコしているが、お前わろてる場合かと思わざるを得ない。こういったイラストが人間によるデザインの産物であって、そこに牛や豚の意図が一切介在する余地も無いことは重々承知の上で、やっぱりわろてる場合ちゃうやろ、と思う。

ただ、生物というものが生存を続けていく以上は、他の生物を食べる必要がある。当然ながらそれは人間も例外ではない。特に人間の食事には「娯楽」という側面もある。どうせ頂く命なら、より有意義に消費される方が良い。となると、やはりキャラクターの牛や豚は笑顔でないといかんだろう。

「今日は焼肉にしようぜ!」と盛り上がって店前に行って、牛のキャラクターの表情が悲壮感と怨念溢れるものだった場合どうなるか。さっきまで「生センマイあるかなあ」とか「腹減ってるから5人前くらい食べれるわ~」と豪語していたサラリーマン達も皆一様に口を噤む。牛タン大好きなわたしも「そういえば牛一頭からとれる牛タンって何人前くらいなんだろう」とひっそりと牛の命を概算し出す。誰からともなく「今日は焼肉…やめとくか」と言い出し、そぞろに歩き出す。さっきまで「今日はガッツリしたもん食いたい」と騒いでいた奴は「おでんとかにしよう」と野菜と練り物に逃げ道を見出し、後ろの方では「俺さっきの牛と目合っちゃったよ」と一人が言い、「やめろよ!」と肘で小突かれているしまつ。

確かにこんな飲み会の始まりはいやだ。命をいただく大切さは食事のシーンとは離れたところで学ばせてほしい。牛や豚のキャラクターには今後もずっと笑顔でいてほしい。それが人間のエゴの象徴的表象物のひとつだとしても。

とかなんとか日頃から考えていたのだが、この間「さすがにこれは人道にもとる」と思わされた店があった。ビジュアルキャラクターがいたわけではないのだが、店の名前が「うなぎのお宿」だった。

いくらなんでも、これはいかんでしょう! 百歩譲って、肉を提供する飲食店が牛や豚をイメージキャラクターにするのは分かる。パッと見で何の肉を提供しているかが分かるし、ビジュアルにする場合そこに悲哀があっては客も引くだろう。

ただ「うなぎのお宿」は違う気がする。人道的に超えてはいけない一線をスキップでまたいでいる。だって宿って、もうそれ完全に騙し討ちでしょう。うなぎに対する。わざわざ「お」をつけてお宿とか慇懃に表現しているが、この丁寧さも熟練の詐欺師の手口の一つですよ。

うなぎの一家が新橋駅前を歩いている。年の瀬を迎え、いよいよ厳しくなってきた冷え込みと、冷たい北風が体表面のぬるぬるを急激に冷やしていく。

「お父さん、寒いよ。早くどこかに入ろうよ」

「そうしたいが、どこのホテルも断られてしまってなあ」

「やっぱりこの粘液がダメなんだよ!もう疲れたよ」

「もうちょっとだから頑張んなさい。子どもは元気でなくちゃいかん」

ぐずる子うなぎに父うなぎは厳しく接する。だが、冬を迎え、日ごとに大きく成長する子うなぎを、父うなぎは内心とても誇らしく思っているのだ(ちなみにうなぎの旬は10-12月である)。母うなぎも、あんなに小さな稚魚だったのに、こんなに生意気な口がきけるほど大きくなったのね、としみじみ。粘膜ぬらぬら。

歩を進めていくと、子うなぎが何かを発見する。

「父さん、あれ見て!『うなぎのお宿』だって!」

夜道に、「うなぎのお宿」と書かれた内照式看板が煌々と浮かんでいる。東京のこんな繁華街にも、わざわざうなぎのための宿を用意してくれているなんて、親切な人もいたもんだ、と父うなぎは感動もひとしお。店に入ると、応対もしっかりしていて、店内も綺麗だ。飛び入りでの宿泊だが、用意があるらしい。店内は古典的な日本風のつくりで趣すら感じさせる。立派な水槽まで完備されており、母うなぎなんかは平身低頭で店員にお礼を言っている。

「宿が取れて本当によかったわあ、わたしなんか粘膜が風で渇いてパリパリになっちゃったわよ」

母うなぎも寝床が確保できて安心したのか、先ほどよりも饒舌になっている。

家族で水槽に入り、ひといきつく。水温もちょうど良い。「今日は家族水入らずだな」「水に入ってるけどね!」。うなぎジョークも弾む。父うなぎは旅の疲れに意識が眠りの世界に誘われるのを感じる。父うなぎは目を閉じて考える。ここはきっと、長年うなぎを相手に営まれてきた宿なのだろう。明日、朝起きたらまた店の人にお礼を言おう。どこか遠くで声がする。こんな遅くまで店は賑わっているようだ。近所でも評判の店なのだろうか。食堂もあったようだ。明日はそこで豪華なものを食べて、また旅を始めよう。こんなに良い店なんだ、さぞかし飯も美味しかろう……。

うなぎ家族が皆寝静まった頃、店に二人のサラリーマン風の男が入ってくる。店主とのやり取りも軽妙だ。なじみ客なのだろう。

「いらっしゃい、何にします」

「お任せでいいよ」

「今日はさっき新鮮なのが3匹入ってきたんですよ。白焼きなんかどうですか」

「いいね、じゃあそれに癇つけて、あと肝吸いね」

明朝、店の看板は光を消し、通りは閑散としている。うなぎの家族が入った店から、誰かが出てくる気配は無い。騒がしかった子うなぎの声は、もう誰にも聞こえない…。

こういうことですよ。「うなぎのお宿」で毎日行われていることは。もうほんと、飲食店を始める人は店名とかビジュアルとかを決める前に、聖書とか哲学書を読むか、それか大学で倫理学を専攻した人にアドバイザーに入ってもらってください。頼みますから。