人間がへた

誰のためにもならないことだけ書きます。半径三メートルの出来事と、たまに映画と音楽。

サンタクロース本質主義に真っ向から立ち向かう

サンタクロースという存在はいったいなんなのか。というか、2019年を迎え新年の慶びに世間が浮足立つなか、シーズナリティ―のかけらもないクリスマスの話でブログ初めをして良いのだろうか。常に後手後手の人生。今年もしょっぱなから出遅れております!

話を戻そう。わたしはもうサンタクロースを信じていない。これは言うまでもない。この年でサンタクロースを信じているのは痛い。コリン星出身の人間ならまだしも。わたしは地球出身の地球年齢26の女なので。

ていうか最近の子どもたちってサンタさん教育はされているんだろうか。昨今の子育て事情にはとんと疎いのでこのへんの話は怖い。まだお子様だと思って「サンタさん来てくれた?」とか話しかけた子どもに「は?おばさん何言ってんのバカじゃない?」とか返されたらどうしよう。「黙れ扶養家族が!」。そう叫んで社会人パンチで子どもを地面に沈めてしまうかもしれない。そして水戸黄門の印籠のように会社支給の保険証を警察に見せる。これが扶養を抜けた社会人のパワーです、という堂々たる表情で。そしてしっかり20歳以上なのを警察に証明した上で実刑判決が下る。

まあそのへんはどうでもいい。問題はサンタクロースである。そもそも、大人たちはサンタを都合よく活用しすぎではないのか。よく「良い子にしていないとサンタさん来てくれないよ」と言うが、そもそもサンタさんに本気で会いたい子どもはいるのか。子どもはプレゼントが欲しいだけなんじゃないのか。サンタさんの後ろにあるプレゼントでパンパンの白い風呂敷にのみ焦点が合っている。親も潔く「良い子にしてないとプレゼントあげないよ」と言えばいいものを、即物的すぎる教育はいかがなものかということでサンタさんが「良い子」と「報酬」のクッションにかまされている。梱包材のプチプチみたいな使われ方。サンタさんだって人間なのに。

まあ、「サンタさん=プレゼントをくれる人」というイメージが根付いちゃった時点で、子どもはサンタさん本質主義の立場にある。サンタさん本質主義学派の子どもたちは言う。

「サンタクロースとは、『良い子』のもとに12月25日の夜に訪れ、『良い子』を全うした報酬として子どもたちにプレゼントを与える存在です。サンタクロースの訪問を受けられない子どももいるとは言いますが、これはその子どもが『良い子』ではなかった場合の例外的事例であり、あくまでもサンタクロースとプレゼントという二つの概念はアプリオリに結びついたものであり、サンタクロースの本質は『プレゼントを与える』というところにあると言えるでしょう」

ちなみに、『』の部分では演説者である子どもは人差し指と中指を曲げてクイクイッとやっているのを脳内で補足してほしい。あのポーズ大事なので。

そして、サンタさん本質主義学派があるなら、それに異論を唱える学派も当然ながら存在するでしょう。アンチサンタさん本質主義学派は言うわけですよ。

「いいえ、サンタクロースを『プレゼントを与える』存在と規定することは、サンタクロースに内在する多様性や人間性を否定する論理です。妄執的と言わざるを得ません。サンタクロースが持つ要素は、全ての人間も普遍的に有しているものでもあります。『プレゼントを与える』という、親でも、恋人でも、友人でも、どんな関係でも行え得ることを、サンタクロースにのみ本質的に属するものと断じるのは、人間社会の豊かなコミュニケーションを恣意的に限定する狭量な主張ではないでしょうか。」

この学派は便宜的にサンタさん実存主義とでもしましょうか。サンタさん実存主義学派の演説が終わった後の質疑応答で、わたしは「ゆーみんは『恋人がサンタクロース』と論されていましたが」と議論をふっかけ、サンタさん本質主義学派とサンタさん実存主義学派の両方から袋叩きにあう。「サンタクロースの一側面だけを捉えた固定的で差別的な主張である」として。

わたしは一体なんの話をしているんでしょうか。ちなみにわたしのサンタさんへの信仰は、小学生の時夜にプレゼントを抱えて部屋に忍び込んでくる父親を見て大泣きした時点で絶たれました。世のご両親は、子どもがしっかり寝付いたかどうかを確認してからプレゼントを置きにいきましょう。サンタさん恋人主義学派からの切なるお願いです。ところで、わたしのサンタさんはどこにいるんでしょうか。