人間がへた

誰のためにもならないことだけ書きます。半径三メートルの出来事と、たまに映画と音楽。

タバコに火を灯す姿は祈りの所作に似ている

夜に吸うタバコは格別なのだ。喫煙者なら何となく分かってくれる気がしているが、タバコが旨いシチュエーションは、夜・冬・海、この3つである。キリスト教における父・子・精霊の三位一体と同じ図式でこれはもう確立している。天におわすはニコチンモンキー神。父なる神ニコチンモンキーは、ヤニが切れたる時、大地に怒りのシケモクを降らせるであろう…。

かつてタバコを吸いだした時も夜に喫煙することが多かったので、その思い出による刷り込みもあるかもしれない。父が喫煙者だったのだが、一時期は一日2,3箱吸っていた。ニコチンの害を測るための実験用モルモットでさえ吸わされない量のタバコを毎日飽きもせずスッパカスッパカ吸っていた。未成年のタバコ喫煙や購入への社会意識もまだガバガバの時代だったので、父のタバコが切れると小学生のわたしがよく近所のタバコ屋まで走らされたものだった。

初めての喫煙は父のマイルドセブン8ミリをちょろまかして吸った高校一年生の頃であった。両親が寝静まった深夜3時頃、自室からベランダに忍び出てタバコに火を点けた。注意深く吸ったので噎せることは無かったが、初めてのタバコは苦い塊が喉の奥に詰まったような感じで、最低にマズかった。

だが、わたしの目的は「煙を出す」ことだったので、味は問題ではなかった。恐らく赤子、いや胎児時代から母を通じて副流煙に晒され続けたわたしは、生まれながらにしてニコチン中毒の鬼子だったのだろう。殺人鬼に育てられた子が人の生首で無邪気にサッカーボールをするように、わたしも母の乳房の代わりにタバコを吸い、タバコでジェンガを組んで遊んだ。それは嘘だが。まあ、そんな感じだった。タバコの煙や匂いに嫌悪感は無く、むしろ落ち着く香りだった。

そして、人がタバコを吸うのを見るのが好きだった。これは多分母方の祖父が原因だ。幼少時、祖父がタバコの煙で輪っかを作って見せてくれたのが、とても楽しい思い出として脳裏に刻みこまれた。これは今でもわたしの「人の喫煙姿」へのフェティシズムとして強く残っている。愛する孫を楽しませようと何気なく作ったタバコの煙が、孫の喫煙習慣だけでなく性癖までも形成してしまった祖父の無念はいかばかりか。多分天国で嘆いていることと思われるので、この場を借りて謝罪する。じーじ、ごめんなさい。地上ではタバコ税の値上がりが半端ではありませんが、禁煙する気は一切ありません。届けこの想い、紫煙に乗って。

それから時々、親の目を盗んで深夜のベランダでタバコを吸うようになった。味はやはり最低だったが慣れた。真っ白な煙を吐き出して、それが夜の闇に滲んで溶けていくのを見るのが何よりも好きだった。隠れて悪いことをしている状況もスパイスとなり、深夜の秘密の喫煙は、初めてわたしに与えられた自由の象徴のように思われた。

 いつものようにベランダから車の通らない国道をぼんやり見ながらタバコを吸っていると、わたしは一つのことに気付いた。タバコを吸うと、妙に夜景が煌めいて見えるのである。俗称では「ヤニクラ」と呼ばれる、喫煙で血流が阻害され生じる貧血状態による軽い眩暈様の症状だったと思われる。当時のわたしもそれは知っていたが、煙を肺に入れることにも慣れたばかりの、あの何とも言えない圧迫感。それが胸に満ちた後、息を吐くと夜色の水に白い絵の具を垂らしたように煙がブワッと視界を隠し夜に帰っていく、そして訪れる軽い浮遊感と、何重にもなって網膜に反射する街灯や信号機の光。恍惚感が尋常じゃなかった。どーせ酷い乱視なんだから素直にメガネぶん投げて夜景見てろよという話であるが、ヤニクラトリップ中の女には馬耳東風。

喫煙の違和感にも慣れて調子に乗ってきた時期だった。バニラの香りがする自分用のタバコも机の引き出しに隠し持っていた。変哲の無いただの街灯や信号機や道をゆく車のヘッドライトが、金平糖のように乱反射して揺らめく景色を見たい一心でタバコを吸っていた。その頃には身体もタバコに順応しつつあり、一本吸った程度ではヤニクラにならなくなっていたので、立て続けに吸うしかなくなっていた。耐性がついてしまったヤク中の廃人ロードと全く同じフローを辿っていて本当に恐ろしい。

連続して10本程度吸った時だったか。わたしの身体に異変が起きた。ものすごい気持ち悪くなった。完全に吸いすぎである。ニコチンモンキー神よ、あなたにヤニをお返しします…とばかりに煙を天に捧げ続けたわたしだったが、いつしか敬虔な気持ちを忘れ、自己の快楽に浸っていたわたしに天罰が下ったのである。

トイレで思いっきり吐いた。吐いた後も心臓がバクバクし、手足の末端から血の気が引いていく感じが強烈な吐き気と共にしばらく続いた。ニコチンモンキー神に命まで捧げるところだった。ニコチン原理主義者の悲惨な末路。

痛い目を見て反省したわたしは、ニコチンモンキー神への祈りはそこそこに留めることに決めた。もうベランダからのあの鮮烈に美しい夜景は見えないが、神に祈らずとも美しいものを見れることを知った。時々、吸いすぎて気持ち悪いのに、それでも次のタバコに火を点けてしまう時がある。あれは、いつか見た神の世界への回帰を諦めきれないわたしがそうさせるのか。それかわたし自身がニコチンモンキー神へと進化しようとしているのか。多分後者。ヤニクラトリップを経て神に至る。教義は「ひとのときを想う」。