人間がへた

誰のためにもならないことだけ書きます。半径三メートルの出来事と、たまに映画と音楽。

ダメンズセンサーは今日も胡蝶の夢を見る

大学の時のアヤという友人が東京に遊びに来るというので、時間を合わせて飲みに行った。互いに近況報告をし合ううちに、アヤの恋人の話になった。わたしの上京前から付き合っていた人とまだ続いていたらしい。

「誰が誰か分からん、久しぶりに会ったから頭ごっちゃになってるわ」
「え~アヤいっぱい話したやん」
「覚えてない。でも長いね。良い人なん?」
「うん。黒ずみも『わたし全然タイプじゃないわ』って言ってたし、絶対良い人」

ん?どゆこと?となったので尋ねると、要するにわたしがダメンズ大好き人間であるので、わたしの好みではない人間はとりあえず「ダメンズではない」という最低限の保証を受ける資格がある、ということらしい。

「なるほど…」

特に反論も無い。わたしのどうしようもないダメンズ好きは友人、先輩、恩師、母親などに漏れなく知られている。自他ともに認められる立派なダメンズウォーカー。文字通りクソの役にも立たないこの性質が、ダメンズセンサーとして人のお役に多少なりとも寄与するならば、それもまたダメンズ冥利に尽きるというものである。

ダメンズ好き活かして恋愛占い師にでもなろかな。恋人と一緒に来てもらって、わたしのタイプじゃなかったら『大丈夫、自信を持ってお付き合いなさい』、タイプだったら『やめとけ』って言ってあげる仕事」

わたしの与太話にアヤはケラケラと無責任な笑い声をあげて、恋人が待つ大阪に帰っていった。

ダメンズ好きのわたしの初恋は高校1年生の時であった。古文と漢文を受け持つ、佐藤という教師で、35歳くらいだった。飄々とした人物で、色素の薄い瞳と髪の毛が印象的だった。

女子校における常であると思うが、基本的に40歳くらいまでの男性教師には多かれ少なかれ恋慕を寄せる生徒がいるものである。というか男であれば、最低1人はその教師のファンがいた。顔はブス、頭もハゲ、腹も出ているし人格も大して良くない、という教師でも、探せば一人は「あの先生好き」という生徒がいた。

佐藤先生は若干の癖の強さがあったので、爽やかイケメン系教師の人気には劣るものの、その代わりに根強いファンを抱えるタイプの教師だった。好きになったきっかけは忘れた。ただ、「わたしに興味が無さそうな人」を好きになる最悪の性質を持っているので、そのへんに起因する恋心だった気はする。

あと、ある時、全生徒が突然体育館に呼び出され、物々しい教師たちの雰囲気に生徒たちが気圧されつつ始まった議題が「ガムの包み紙がトイレに捨てられていた」というゴミのような全校集会があった。綿菓子よりも軽いトピックスを人死にでも出たかの如く重く語る教師たちの演説の最後に、佐藤先生が前に立った。彼はご両親を早くに亡くされていたようだった。親やら教師やらへの反抗期真っ盛りのわたしたちに、佐藤先生は「自分を大切に想う人がいる尊さを自覚し、きちんと生きろ」というようなことを15分程で話した。たかがガムの包み紙一つを起点にビッグバンのような拡がりを見せる佐藤先生の主張にわたしはちょっと笑っていたのだが、周りの生徒は戦時中の経験談を語る老婆に相対しているかのような真面目な顔で聞き入っていた。当時のわたしの家は腐ったトマトのようにグズグズだったので、「家族を大切に」みたいな美辞麗句は嫌いだったが、何故だかその話は印象的だった。家庭にも様々な形があり、そこでの愛を伝えきれぬまま持て余すことの寂しさを、妙に上から目線で語る佐藤先生に不思議と共感を抱いた。

ある日、国語系教科の係だったわたしは、放課後古文の課題ノートを集めて教師の作業場のような所定の小部屋に置きに行くと、佐藤先生が一人で座っていた。ノートの束を手渡して部屋を出ていこうとするわたしを、「全部採点して今返しちゃうから」と佐藤先生が呼び止めた。向かいの席に座り、採点が終わるのを待つ。正直、ほぼ話したことも無かったので無茶無茶緊張していた。沈黙が蔓延する小部屋から早く逃げ出したかったが、それを悟られるのも嫌で、採点作業に勤しむ佐藤先生のボールペンの動きをひたすら目で追っていた。

突然「俺幽霊見えるんだけどさあ」と佐藤先生が口を開いた。急に中二病みたいな話題を持ちかけられ動揺したが、黙って続きを聞いた。佐藤先生はこの校舎で体験したいくつかの心霊話を、採点中のノートから目を離さずに淡々と話した。

「幽霊見て怖くないんですか」
「怖いときもあるけどね」

「けど何だよ」と思ったが、どう話せばいいか分からず黙り込んでしまったので、話はそこで終わり、再び訪れた沈黙に我々は浸っていた。採点は10分程で終わった。「待たせちゃってごめんな」と机に目を落としたままノートをわたしに手渡した佐藤先生に、「大丈夫です」と先生のつむじを見ながら返事をした。「頑張ってくださいね」と部屋を出る時に付け加えて、横開きのドアをことさら注意深く静かに閉めた。

それがきっかけというのでもないが、わたしと佐藤先生はたまに話すようになった。当時軽音楽部の部長をしていたわたしは、部室のカギを返しに必ず職員室を訪れていたので、佐藤先生がいる時はたわいもない話を5分10分程度してから帰るようになっていた。その頃は本を狂ったように読んでいたので、主に今読んでいる本の話題が主だった。面白い本を貸し借りするようにもなった。

わたしは鮮明な夢を見る。特に現実での想いや悩みや感情がモロに反映されるタイプなので、当然強く憧れを持っていた佐藤先生もよく夢に登場した。内容はと言えば、廊下ですれ違いざまに挨拶できて嬉しかったり、放課後話そうと思ったら他の生徒に囲まれていて残念だった、というような現実世界から1ミリの進歩も見られない夢ばかりだったが、それでも得した気がして、そういう夢を見た日は珍しく良い目覚めを迎えていたりした。

漢詩か和歌か忘れたが、昔の誌歌の世界では、「自分に想いを寄せる人が夢を通じて会いに来る」と、夢に登場する異性は「自分を好きな人」とする文化があったらしい。授業で習った時は皆「ストーカーの理論や」と笑っていたが、わたしはそれがとても心に残った。バカらしいと思いながらも、「あー夢を通じて会いにきてくれた」と思い込んで朝の目覚めの憂鬱さをごまかしていた。

高校を卒業し、大学に入り何年もしたあとも、時々佐藤先生は夢に出てきた。相変わらず、廊下で挨拶できたできないで一喜一憂する、高校生のままの夢の中の自分に「進歩ないな」と苦笑しつつも、気分は良かった。

ある時、高校の友人から「佐藤先生が亡くなった」とのことで通夜やら何やらの連絡が来た。バイク事故だったらしい。佐藤先生が結婚式を挙げた一週間程後のことだった。結婚したらしいこともその時聞いた。

通夜にも行かず、また仕様もなく悲しい気持ちも特に抱かなかった。もうわたしは大学生として新しく大阪で生活を始めていた。大して深い交流があったわけでもなく、卒業してから会うこともなく数年が経っていた。ただ、何となく貸しっぱなしにして返してもらうのを忘れていた数冊の本は、もう二度と返ってこないな、と考えていた。

その後も時々佐藤先生は夢に出てきた。夢の中のわたしは高校生のままで、やはり挨拶で一喜一憂したり、読んだ本の感想を佐藤先生に熱弁したりしていた。目が覚めてから、佐藤先生がもうこの世にいないことを思い出し、「好きな人に夢を通じて会いにくる」なんてやっぱり大嘘やん、と当たり前のことを寝起きのぼんやりした頭で改めて認めていたりした。

佐藤先生の死後も二年ほどは頻度は少なくなったとは言え、同じような夢を見ていた。ある時、夢の中でわたしは「夢を見ている」と自覚があるまま動けていた。部活の朝練前の、白々しい朝日に照らされた人気の無い校舎に一人立っていた。よくすれ違っていた階段の踊り廊下でわたしは佐藤先生とすれ違い「おはようございます」と挨拶した。佐藤先生はいつも通り、特に目を合わせることもなく「おはよう!」と一言わたしに返して、階段を上っていった。既に死んだ先生と話すチャンスなので、追いかけて声をかけようとしたが、やはり緊張して何も言えないわたしは黙って先生が階段を登りきるまで、その背中を肩越しに追っていた。顔は一度も見れなかった。

目が覚めて、「惜しいことをした」と思った。誰にも侵害もされず、思い通りにできる夢の中でくらいもうちょい勇気出して何やらしろよ、と自分のヘタレ具合にうんざりする。

それからも時々佐藤先生の夢は見たが、わたしが「佐藤先生は既に死んでいる」という自覚がある以外は内容やストーリーに変わり映えも無く、そして佐藤先生も次第に夢に出てこなくなっていった。

やっぱり夢は夢を見る本人の思いが反映されているだけであって、想い人が夢を通じて会いにくるとかロマンチックな話なんて無いよ佐藤先生…と、随分昔の授業内容にツッコミを入れながら起きる朝の度、それでもこうして誰かの夢に登場し続ける佐藤先生を少し羨ましく思うのである。