人間がへた

誰のためにもならないことだけ書きます。半径三メートルの出来事と、たまに映画と音楽。

水族館やら動物園をどういうテンションで楽しめばいいのか

以前付き合っていた男性は「水族館が好きだ」と言った。

わたしは家族で出かけた経験がほぼ無く、友人も少ない方なので外出自体に慣れていなかった。そのせいで楽しみ方が分からないということもあるのだろうが、水族館や動物園といった「生き物が展示されている」という空間に苦手意識を感じていた。行けば行ったで、その都度「きれい」とか「面白い」とは思うのだが、どうも作業的になってしまうきらいがあった。

要するに、点呼作業をしている感覚になってしまうのだ。楽しみ方を心得た人ならば、生き物たちの挙動や姿ひとつひとつを観察して、何かしら喜びなり発見があるのだろうが、わたしは違う。

「はい、サルいます。キツネザルいます。はい次~ライオンさんいます。トラもいますね、しましまが追加されました。猫科が続いています。次はゴリラコーナーですが、姿が見えませんね。裏で診察でもされているのでしょうか。まあサル科はさっき見たし良いでしょう、次に進みましょう。」

脳内はこんな感じである。完全に出欠確認。スタッフの方に完全に意識が寄っている。始終スタッフとしての無意識を持ったまま回るので、動物そのものの様子を楽しもうという気持ちが表層に出てこない。小規模の動物園なんかは一時間もせず回り終えてしまう。もっかい回りなおそうよ、と言われても「え、でもさっきいたの見たし…」という戸惑いしか生まれない。出席簿とったあとに「じゃあもう一回!今日はアンコールしちゃうぞ~では安藤!」となる教師はいないでしょう。

水族館での過ごし方も上述とほぼ変わらない。強いて言えば、水族館の方が空調が効いているので好き。その程度の愛情しかない。しかし点呼作業という視点で見るならば、動物園よりも水族館の方が作業に時間と手間がかかる。動物園は1ブースにつき1動物しかいないが、水族館はバカでかい水槽に多種多様な大小の魚類が常に流動的に泳ぎ回っている。探すのが大変だ。そもそも点呼作業の感覚で園やら館やらを回るのを辞めろという話なのだが。

ただそんなわたしにもちょっと楽しいと思える部分はもちろんある。人の心を失ったわけではないので。ただスタッフとしての自意識が高すぎるだけで。

それは動物園ならゾウとかキリンのコーナーだし、水族館ならサメやクラゲのコーナーである。とにかくわたしは大きいものに目がないので、ゾウやキリンはとても好きだ。まずでかい。日常生活ではまず目にすることのないでっかいものが、命を持って活動している。すごい。あと変なとこが長い。ゾウなら鼻だし、キリンなら首。単純に面白い。長くてすごい。語彙力も減る。

水族館にクジラがいたら通い詰めると思う。クジラの大きさに感動しておもらしする。排泄器官も緩む。クジラほど大きくはないけど、トドとかも好き。ずんぐりむっくり、みっちり、ぼってり、そういうオトマノペが似合う生き物は好きだ。地上にいる時の、長体楕円体のものがゴロンと転がっている無様な姿も愛らしいし、水中で自由自在に遊泳している様も良い。

いつもおっとりして優しいだけが取り柄だと思っていた男が、得意分野になると途端に有能と化すのを目の当たりにした時と同じ驚きがある。

「意外とやるんだよ、俺」

トドのドヤ顔が見える。でも得意なとこだけかっこつける男って何か嫌。小学校卒業までにその段階は終わらせていて欲しい。

そういえば小学4年生で転校先にいたクラスメイトの男が、「おれ渡り棒すごい得意なんだ」と言って、渡り棒を披露してくれた謎時間があった。彼は渡り棒の上にしゃがんで、下にいるわたしに向かって「すごいだろ」とかなんとか言っていた。しかし制服のショートパンツの隙間からガッツリきんたまが見えていた。丸出しのモロ出しだった。

正直そこからあまり記憶が無い。家族以外の股間のプライベートゾーンを見たことが無かったので、物凄いインパクトだった。それ以上に、「見えちゃいけないものが見えてる!」という焦りと、「こいつかっこつけてんのにきんたま出てる」というギャップが思考能力を完全に破壊していた。

しかし、最後まで「きんたま見えてるよ」とは言わなかった。クラスメイト、もとい、きんたまを見上げながら「すごいね」と最後まで褒め続けた。転校直後間もない女に、しかも自分がかっこつけている相手に、きんたまがはみ出ているのを指摘されることほど、男のプライドが傷つけられる出来事はないだろう。当時のわたしはそれを理解した上で、事実を胸に留める大人の女の所作を身に着けていたのか。

今わたしは、そのクラスメイトの顔や名前はさっぱり思い出せないが、そのクラスメイトのきんたまだけは鮮明に思い出せる。透き通った青空とショートパンツから覗くきんたまのコントラストは、ロマン主義絵画的な神秘性すらたたえていた。それは美化しすぎか。きんたまはきんたまだ。

水族館の話をしていたはずだったのにきんたまの話になってしまった。動物園や水族館ではスタッフの仕事を奪おうとするし、話をしようとしたらきんたまに思考が奪われてしまう。人間は概念やモノの所有権を奪い合う権威的欲求からは逃げられないのか。このカルマの輪廻から解放されたい。きんたまモチーフに生涯を捧げる画家にでもなれば良いのか。光の幻想的な美しさに蠱惑されたクロード・モネのように。