人間がへた

誰のためにもならないことだけ書きます。半径三メートルの出来事と、たまに映画と音楽。

酔っぱらいの帰巣本能について

電車に乗っている時、目の前に酔っ払いが立った。サラリーマン風の中年男性だったが、露骨なまでに酔っていた。「酔っ払い」という概念すら知らない赤子でも、あれが酔っ払いだよ、と指さしてやれば「なるほど」と言葉を喋りだすんじゃないかと思うくらいに。

男は吊革に両手で捕まっていたが、立ちながらほぼ寝ていたようで、ものすごい勢いで揺れていた。グラグラ、という生易しい表現では再現しきれない。グワァ~ングワァ~ンという擬音が相応しい揺れ方だった。

小心者のわたしとしては、いつおっさんが目の前に座っているわたしに向かって倒れこんできやしないかと気が気でなかったのだが、横に座っていた中年女性は男には目もくれずクロスワードに夢中だった。この動じなさについてはある種の尊敬すら抱いた。東京の電車にはゴミと猛者が同居しているんだ。民度のるつぼだな、と考えた。すごいところに来てしまった、と故郷に想いを馳せたりもした。

「こんなに酔っていたら、家まで辿りつけないだろうなあ」と少しの慮りもあった。だがわたしの心配をよそに、ある駅に電車が到着しアナウンスが流れると同時に、男はパッと目を開き、フラフラとドアを出て行ったのだ。

すごい帰巣本能だ!と感動した。人間の形をしたハトやん!とも。一人で大盛り上がりだった。

ただ酔っ払いの帰巣本能についてはわたしも似たような経験を何度もしているので、分かるところがある。飲みに行って大いに酔っ払い、記憶すら朧気だが朝にはちゃんと自室のベッドで目が覚めている。まあ、冷蔵庫の中にスマホをしまっていたり、スマホのメモ帳に「鼻毛が三つ編みになっているキャラクターは大体すごい強い」などと謎のダイイングメッセージが残されている程度の酔狂さはあるが。

ただ、それを考慮してもあの男の帰巣本能はすごいんじゃないか。酒臭さも揺れ具合も相当なものだったから、余程深酒をしたんだろう。前後不覚の状態で、電車内のざわつきの中から降りるべき駅のアナウンスだけ的確に聞き分け、しっかりと降車したわけである。ハトでさえも、あそこまで酔っぱらってたら巣にはたどり着けないんじゃないか。

そういえば、まだ通信機器の発達していなかった時代の新聞記者は、ハトを数羽常に携帯していたという。伝書鳩に文書をくくりつけて飛ばすことで、スクープやニュースをいち早く会社に届けるためだ。

今でこそ、通信技術は隆昌を極め、ハトなど持ち歩かずとも情報のやり取りは出来るが、何があるか分からない昨今である。あらゆる情報網が絶たれ、そこらへんでポッポポッポやっているハトが絶滅危惧種に認定される時代が訪れないとは言えない。そうなった時は、新聞記者は酔っ払いのおっさんを数人引き連れていけば良い。ハトにエサをやるように、おっさんには紙パック焼酎を与える。記事が完成したら、おっさんにくくりつけて放流してやれば良い。

ただ、酔っ払いのおっさんを何人も引き連れている新聞記者の取材に応じる人間はいないだろうな、とも思う。

「本来、公正・公平性が保たれているべき政治が、政治家の権力や既得権益に委ねられている現状についてどう思われますか?」とか大真面目に語る記者の後ろで、酔っぱらったおっさん達が「ま~た小難しい話して!」「お食事券の汚職事件ってか!?」と、ポッポポッポやっているわけである。

多分、おっさんとの酒盛りに夢中になってしまう。新聞記者が酔っぱらったおっさんを引き連れないのも、納得である。

「世田谷」という単語を凶器に変える男

以前、同期が軽井沢に旅行に行ったとのことで、お土産を買ってきてくれた。「軽井沢美人」という名前の赤ワインだった。

地酒を貰うというのはとても嬉しい。ある場所でしか買えないという特別感があるし、地酒を飲むと何となくその土地を体験しているような気分になれる。素直に喜び、「ありがとう!」と礼を言うと、男は「まあお前は世田谷のブスだけどな」と言った。

予想だにしていなかった唐突な罵倒に唖然とする。この同期とは軽口を叩きあう気のおけない仲ではあるが、この時はただ和やかに談笑していただけなのに。あまりにも突然な罵倒だったため狼狽すらした。

「ありがとう!」

「お前は世田谷のブスだけどな」

もはや会話が成立していない。会話の文脈を無視してまで、わたしが世田谷のブスであるという主張を行わずにはいられなかったのか。文脈を無視して人を罵倒する男。こんな奴とは誰も友達になりたがらない。通常、人が誰かに侮蔑されたと感じたときに生じる反応は「怒り」や「悔しさ」であると思うが、この時わたしに沸き上がった感情は1割の怒りと、9割の困惑だ。怒りと困惑を持て余し、その両方を超スピードで行き来していた。感情の反復横跳び。

そもそも、わたしは世田谷在住ですらない。おまけに、まだ東京に出てきて日も浅いので世田谷がどんな街かも分からない。「東京のブス」ではなく、わざわざ「世田谷の」と限定したからには何がしかの含意があるのだろうが、知る由もない。知らない街を接頭語につけてバカにされる、こんな屈辱があるか!

この同期の男を便宜的にスズキと呼ぼう。スズキはとにかく酒癖が悪い。ある時、同期全員で飲み会をやったのだが、女子のヒールを脱がしそこに日本酒を注いで飲んでいたらしい。しかも自主的に。そして別の同期の男には、何故か自分の靴に日本酒を注いだものを飲ませたらしい。そこはせめて女子の靴で飲ませてやれよ、と思うが。まあ街の名前すら悪口にするような悪鬼羅刹なので、さもありなんか。

そして王様気質でもある。なまじスペックが高いものだから、今よりも若い時分には相当腰高な人物だったようだ。「俺、小学生でサッカーする時はずっとフォワードやってたし」と言っていた。「キーパーは友達にやらしてた」とも。わたしはサッカーには明るくないので、何となくしかニュアンスを受け取れないが、友達に一生キーパーを押し付ける行いが非人道的であることは分かる。

しかしこんなスズキも、就職し、社会の荒波に揉まれ、第一線で活躍してきた先輩社員を目の前にしても王様でいられるほど傲慢ではなかったようだ。「全然敵わねえ…」としょんぼりしていた。そうやって大きくなっていくもんよ、と肩を叩いて慰め合った日もあった。

だがこの前、何気なくスズキのインスタグラムを見るとユーザー名が「suzuking」だった。王様、全然抜けとらんやん、と思った。全然嘘やん、むっちゃヒエラルキーの頂点としての自意識持ってるやん、と。上京して忘れかけていた大阪弁も蘇る。人の方言に再び命を吹き込む平成の王様。

それにしても、王様と世田谷のブスが同時に在籍している企業というのは凄いんじゃないか。他にありますか、王様と世田谷のブスをいっしょくたにして採用する企業。ダイバーシティもいくとこまでいったな、という感じ。性別どころか、国境も時代も階層も飛び越えている。王様と世田谷のブスが同じ釜の飯を食っているわけである。

でも、改めて考えてみると、そういうことから戦争や差別は無くなっていくのかもな。何とか良い感じの話として終わらせようと思ったが、成立していないのは認識している。なんせ、登場人物が平成の日本で王様を自称する狂人と、世田谷のブスだけだし。引きのないメンバー紹介。

tinderを使いこなすゴリラ in ハプバー

少し前に大学の時の友人と飲みに行った。その時の話をしたい。

まず本題に入る前にこの友人の説明をしておきたい。年齢はわたしと同い年の26歳。東京大学大学院卒。経済学専攻。twitterで事あるごとに「社会学はクソ」と発言して憚らない。ちなみにわたしの大学院での専攻は社会学。シンプルに殴りたい。twitterで多方面に議論を吹っ掛けるせいで、最近旧知の友人にブロックされたらしい。顔は穏やかなゴリラ。

その男が「tinderに登録した」という。tinderとはfacebookと連携したマッチングアプリだ。ライトな出会い系みたいなもんと理解してもらえばいい。男には長い付き合いの恋人がいる。だが男は浮気や出会い系とは縁遠いタイプなので、そのまま続きを促した。

言い分は以下の通りだ。

長い付き合いの恋人がいて、結婚を考えている。でも俺は今の恋人でしか女性を知らないと言ってもいい。男という生き物は結婚前に遊んでいないと、結婚後にタガを外して浮気をしまくるという。だから結婚前に、思いっきり遊んでやろうと思ったんだ。

「いやいや」である。隙あらば「経済的価値」というクロス軸のみで世界中の事々物々を切ろうとする男も、やはり性欲ゴリラへと回帰するのか。わたしは性欲を正当化する男が嫌いだ。水滸伝に登場する宦官たちを見てみろ。私利私欲を満たし、女も抱きまくるあの姿、正に悪徳の確乎不抜という言葉が相応しい。どうせ抱くなら堂々とやれ、そういうことだ。

「ちゃうねん」

ちゃうらしい。前のめりになった身体を戻して話を聞く。

彼女以外の女性と、セックスはしたくない。セックスどころか、ボディータッチすら嫌だ。だが、「結婚前に思いっきり遊んでやった!」という確信が欲しい。そこで、経験の少ない自分に考えられうる”究極の遊び”を実行してやった。

なるほど、である。軽はずみに浮気するような男ではないので、この弁明はすんなりと受け入れられる。しかしここで気になるのはその”究極の遊び”とやらである。

「tinderでマッチした女の子と一緒にハプバー行った」

ハプバーという単語がどの程度メジャーか分からないので、一応説明を挟んでおく。ハプバーとは「ハプニングバー」の略称である。性的に様々な趣味嗜好を持った人々が集まり、会話や突発的に発生する性的コミュニケーションを楽しむ場である。詳しくは自分で調べてほしい。説明が必要な単語が多くてじれったい。ゴリラはゴリラらしくバナナ齧ってうんこでも投げていてほしい。そしたら何も説明がいらないのに。

話を戻そう。つまり、性的関係を結ばずに遊んだ気分になるには、性的な欲望が還元されずに濃縮しているハプバーという場が最も適しているとロジカルに考えたらしい。ハプバーでは全裸のおっさんが仁王立ちでちんこをライトアップしていたそうだ。何だその地獄絵図。

「何してたのそこで」

「一緒に行った女の子が他の男性とハプニング起こしているのを酒飲みながら見てた」

そして男は満足し、無事tinderを退会したらしい。

それにしても、遊び方が常軌を逸しすぎている。普通にクラブにでも行って、遊んでいる感覚を味わうだけではダメだったのか。映画でよくいる、発狂した車椅子の老人と楽しみ方のベクトルが同じだ。金で買った娼婦やら娼年にセックスをさせて、それをブランデー揺らしながら見ているタイプの。

というか、いくら性的接触を持たなかったとはいえ、ここまでやっておいて清廉潔白といえるのか。恋人がtinderに登録しているのを見つけたとする。「ご、ごめん…気の迷いで…」と言うならまだ納得はできる。しかしこの男の場合はどうか。

「大丈夫、安心してくれ。浮気はしていない。一緒にハプバーに行った女が、他の男とハプニングしているのを、酒を飲みながら見ていただけだから」

こんな解答が返ってくるわけである。自信満々のゴリラ顔で。浮気の有無どうこうの前に、相対する男の人格や倫理観の方に気を取られる。ここで予想される恋人の反応は「浮気なんてサイテー!」ではなく「穢らわしい…」である。余韻を残すタイプの軽蔑。

まあ、もしバレることがあったらこのブログを見せて貰えばいいだろう。大丈夫、彼はちょっと変わったところもありますが、基本的には頭が良く心優しい男です。わたしが保証します。仲直りした後には、バナナでも朝食に出してやってください。

自画自賛するパン「ナイススティック」についての一考察

人の家で宅飲みをしていた。途中でつまみを買いに、深夜までやっている小さなスーパーに行った。わたしはパンを食べる習慣がない。嫌いではないが、米の方が断然好きだからだ。なので、パンコーナーではあからさまにやる気の無い顔をしていた。

日本においては、米はパンと対比されることが多い。ちょっと気の利いたレストランでは、主食を米かパンの二択で選べるところも多い。米と双璧を為すものとして、パンたちは我が物顔でスーパーの一角に居座っている。わたしの露骨なまでの「興味ないけど」という顔は、鼻もちならないパンたちへの一つのアティチュードとしての現れである。

「パン食べないの?これとかおいしいよ」

「別に…」

わたしの中の沢尻エリカが鎌首をもたげている。人から勧められた程度で米から寝返るような尻軽女ではない。しかも「とか」なんていう曖昧なレコメンドでは尚更。

しかし、パンの中に少し気になるものを見つけた。「ナイススティック」と名されたパンだった。パン生地にクリームが挟み込まれている。つい手に取った。すると横にいた男が、「おいしそうじゃん。買おうよ」と半ば有無を言わさぬ形で、ナイススティックを買い物籠に放り込んだ。

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ラム酒のアルコールが良い具合に回った頭で考える。つい手に取ってしまった「ナイススティック」のどこに、わたしは目を引かれたのか。わたしはパンより米が好きだ。それは単純に味や、腹持ちや、幼少期からの慣れ親しみなどが要因だ。パンはパンで美味い。パンの魅力を否定する気は毛頭ない。

しかし、あの軽さは明確に嫌いだ。腹にたまらない。どうしても「おやつ」や「軽食」と同じカテゴリに入ってしまう。朝食にはなるが、ランチにはならない。晩飯にパンを出されようものなら形振り構わず怒る自信がある。

見た目も良く、話も軽妙で愉快な男としばらく過ごして別れた帰り道に、「何してんだろ」と思う気持ちに似ている。一緒にいる時は楽しいが、何も残らない。あれだけ楽しく会話していたはずなのに、思い出せる話題が一つもない。軽薄で空疎なエンターテイメント。それがパンだ。

その中にいて、「ナイススティック」は他と一線を画する空気をまとっていた。「大きなジャムパン」や「クリームぎっしり薄皮ぱん」「りんごたっぷり:アップルパイ」などの中で異彩を放っていた。

パンたちが自信に満ちた薄ら笑いでこちらを見ている。

「あの女、誰を選ぶと思う?」

「西洋に憧れて髪なんか染めてるミーハー女だ。どうせパイとかだよ」

パンたちが周囲を憚らない大声で笑う。居心地の悪さを感じていると、パンの一群が近づいてくる。

「やあ、何してんの。こんな深夜にさ」

「別に…お腹が少し減ったから、おにぎりを買おうと思って」

「おにぎり?やめとけよあんな地味なやつ。俺は薄皮クリームパンっていうんだ、高級生クリーム100%使用だぜ」

「俺はアップルパイ。しかもりんご丸ごと入ってる。あっちでパイ生地でもこねようぜ」

肩書を並び立てるパンたちの演説にうんざりする。するとナイススティックが周りのパンを押しのけて前に出てくる。

「俺はナイススティック。ナイスな棒だ」

わたしは数秒、ナイススティックから目が離せなくなる。名前だけで自己紹介を完結するパン、それがナイススティックだ。「ナイス」を自称する傲慢さに辟易しつつも、そのあまりの不遜さについ笑いがこぼれてしまう。ナイススティックも噴き出すわたしを見て、照れくさそうに首の後ろに手をやる。

「よく生意気な名前だって仲間からも言われるんだ。でもこれが俺の名前だしさ」

いい名前だよ、とわたしは言う。あっちで話そうよ。あなたのナイスなとこ教えて。

ここまでがわたしのナイススティックとの邂逅の全貌だ。みなさん付いてこられているだろうか。

しかし、だ。言いたいことは沢山ある。何なんだ、ナイススティック。さっきまで良い雰囲気だった横の女が突然キレだしてナイススティックも驚いている。やべー女引っかけちまった。多分そういうことを考えている。

まずその名前。まずから始まり、やっぱりで終わる。その名前こそ大問題だ。「さっき『いい名前だね』って言ってたじゃないか」?うるせえ、である。水かけたらふやけるパン風情が人間様に口答えをするな。

そもそもナイススティックのアイデンティティがどこにあるのか分からない。「ナイスパン」ならまだ分かる。なぜ「スティック」としたのか。棒状なので「ナイス」の英語表記に続き「スティック」で統一したのか。しかし棒状のパンはそこらに溢れている。それでも彼らは「フランスパン」とか「丸ごとソーセージ」と自称する。なぜか。誇れるところがあるからだ。自己を自己たらしめる誇り、アイデンティティを咀嚼した上で、名付けが出来ている。

その点、ナイススティックの判然としない態度はいかがなものか。自分の形状にのみ自我を集中させている。これは顔がいいだけの男が「おれイケメン」と言っているのと変わらない。意味の無い同語反復。単なるトートロジー。情報量0。

パン市場は厖大だ。百戦錬磨の強敵たちがひしめき合っている。ナイススティックはもはやその市場で戦おうとしていない。パンとしての要素をまことしやかに隠蔽し、棒市場に身を置いている。パンとしての矜持を投げ捨てて。そんな情けないパンが、棒市場で「ナイス」などと自称し粋がっている。ホームセンターの一角で、メートル何十円で量り売りされる棒たちに言い放つ。

「お前らただの棒だろ?俺はナイスな棒。その上食える」

職人肌の棒たちはこれには納得がいかない。色めきだったステンレスパイプを諫めて、鉄パイプが無骨に言う。

「確かに俺たちは食えない。加工されないと、重くてかさばる邪魔者に過ぎない。だが俺たちは周りの工具や、ネジや、それを管理する技術者と力を合わせることができる。重工業で欠かせない人材としての誇りがある。全員で力を合わせれば、何百トンもの重量を支えることができる。お前がナイスだ食えるだといくら粋がっても、俺たちの絆は揺るがない」

ナイススティックには返す言葉もない。すごすごと、再びスーパーのパンコーナーに戻ってくる。

「俺、ナイススティック!俺たち仲間だろ?仲良くやろうぜ」

ナイススティックは周りのパンたちに軽佻浮薄に声をかける。しかしパンたちからの反応は期待していたものではない。

「何、あいつ」

「ナイススティックって、何がナイスなの?」

「あいつが前いたとこ知ってたか?ホームセンターだぜ。パンとしてのプライドがねえんだ」

一度パンの肩書を捨てたナイススティックを受け入れるパンなどいない。虚空に漂い、どこにも着地できないような、茫洋としたポジティブな名前だけが独り歩きしていく。ようやくナイススティックは気付く。冠された名前の重さに圧し潰されそうな、自分の内面の軽さに。

そしてナイススティックの冒険譚第二章『パン生地から見直す』編が始まる。

わたしは「水をかけられたパン」ということわざを作る。「冠された名前のポジティブさと釣り合いが取れていないことを自覚し、萎縮してしまうこと」の意。

キラキラネームの人は使ってください。

水族館やら動物園をどういうテンションで楽しめばいいのか

以前付き合っていた男性は「水族館が好きだ」と言った。

わたしは家族で出かけた経験がほぼ無く、友人も少ない方なので外出自体に慣れていなかった。そのせいで楽しみ方が分からないということもあるのだろうが、水族館や動物園といった「生き物が展示されている」という空間に苦手意識を感じていた。行けば行ったで、その都度「きれい」とか「面白い」とは思うのだが、どうも作業的になってしまうきらいがあった。

要するに、点呼作業をしている感覚になってしまうのだ。楽しみ方を心得た人ならば、生き物たちの挙動や姿ひとつひとつを観察して、何かしら喜びなり発見があるのだろうが、わたしは違う。

「はい、サルいます。キツネザルいます。はい次~ライオンさんいます。トラもいますね、しましまが追加されました。猫科が続いています。次はゴリラコーナーですが、姿が見えませんね。裏で診察でもされているのでしょうか。まあサル科はさっき見たし良いでしょう、次に進みましょう。」

脳内はこんな感じである。完全に出欠確認。スタッフの方に完全に意識が寄っている。始終スタッフとしての無意識を持ったまま回るので、動物そのものの様子を楽しもうという気持ちが表層に出てこない。小規模の動物園なんかは一時間もせず回り終えてしまう。もっかい回りなおそうよ、と言われても「え、でもさっきいたの見たし…」という戸惑いしか生まれない。出席簿とったあとに「じゃあもう一回!今日はアンコールしちゃうぞ~では安藤!」となる教師はいないでしょう。

水族館での過ごし方も上述とほぼ変わらない。強いて言えば、水族館の方が空調が効いているので好き。その程度の愛情しかない。しかし点呼作業という視点で見るならば、動物園よりも水族館の方が作業に時間と手間がかかる。動物園は1ブースにつき1動物しかいないが、水族館はバカでかい水槽に多種多様な大小の魚類が常に流動的に泳ぎ回っている。探すのが大変だ。そもそも点呼作業の感覚で園やら館やらを回るのを辞めろという話なのだが。

ただそんなわたしにもちょっと楽しいと思える部分はもちろんある。人の心を失ったわけではないので。ただスタッフとしての自意識が高すぎるだけで。

それは動物園ならゾウとかキリンのコーナーだし、水族館ならサメやクラゲのコーナーである。とにかくわたしは大きいものに目がないので、ゾウやキリンはとても好きだ。まずでかい。日常生活ではまず目にすることのないでっかいものが、命を持って活動している。すごい。あと変なとこが長い。ゾウなら鼻だし、キリンなら首。単純に面白い。長くてすごい。語彙力も減る。

水族館にクジラがいたら通い詰めると思う。クジラの大きさに感動しておもらしする。排泄器官も緩む。クジラほど大きくはないけど、トドとかも好き。ずんぐりむっくり、みっちり、ぼってり、そういうオトマノペが似合う生き物は好きだ。地上にいる時の、長体楕円体のものがゴロンと転がっている無様な姿も愛らしいし、水中で自由自在に遊泳している様も良い。

いつもおっとりして優しいだけが取り柄だと思っていた男が、得意分野になると途端に有能と化すのを目の当たりにした時と同じ驚きがある。

「意外とやるんだよ、俺」

トドのドヤ顔が見える。でも得意なとこだけかっこつける男って何か嫌。小学校卒業までにその段階は終わらせていて欲しい。

そういえば小学4年生で転校先にいたクラスメイトの男が、「おれ渡り棒すごい得意なんだ」と言って、渡り棒を披露してくれた謎時間があった。彼は渡り棒の上にしゃがんで、下にいるわたしに向かって「すごいだろ」とかなんとか言っていた。しかし制服のショートパンツの隙間からガッツリきんたまが見えていた。丸出しのモロ出しだった。

正直そこからあまり記憶が無い。家族以外の股間のプライベートゾーンを見たことが無かったので、物凄いインパクトだった。それ以上に、「見えちゃいけないものが見えてる!」という焦りと、「こいつかっこつけてんのにきんたま出てる」というギャップが思考能力を完全に破壊していた。

しかし、最後まで「きんたま見えてるよ」とは言わなかった。クラスメイト、もとい、きんたまを見上げながら「すごいね」と最後まで褒め続けた。転校直後間もない女に、しかも自分がかっこつけている相手に、きんたまがはみ出ているのを指摘されることほど、男のプライドが傷つけられる出来事はないだろう。当時のわたしはそれを理解した上で、事実を胸に留める大人の女の所作を身に着けていたのか。

今わたしは、そのクラスメイトの顔や名前はさっぱり思い出せないが、そのクラスメイトのきんたまだけは鮮明に思い出せる。透き通った青空とショートパンツから覗くきんたまのコントラストは、ロマン主義絵画的な神秘性すらたたえていた。それは美化しすぎか。きんたまはきんたまだ。

水族館の話をしていたはずだったのにきんたまの話になってしまった。動物園や水族館ではスタッフの仕事を奪おうとするし、話をしようとしたらきんたまに思考が奪われてしまう。人間は概念やモノの所有権を奪い合う権威的欲求からは逃げられないのか。このカルマの輪廻から解放されたい。きんたまモチーフに生涯を捧げる画家にでもなれば良いのか。光の幻想的な美しさに蠱惑されたクロード・モネのように。

 

日常における映画の登場人物ぽいシーン番付ベスト3

私用と社用のスマホを二台とも画面を割ってしまったので、修理に出した店の隣にあるドトールでパソコンだけを持ってこれを書いている。

精密機器であるスマホを二台とも落として割る、白痴的行為については自分でもどうかと思う。なんならこのドトールに入って着席した五分足らずで、コンビニで買ったハンカチが入っていた包装を落とし、レジで取ったwifi接続手順が記載された紙を落とし(ちなみに携帯が無いのでwifi接続は出来なかった)、パソコンだけでもwifi接続できないか店員に聞きに行って席に戻るとイヤホンが床に落ちていた(ちなみにパソコンだけだとやはりwifi接続は出来なかった)。

横に座っていた男性が、「こいつ一体どんだけ物落とすんだ」という顔でこちらを一瞥したが、彼はわたしがここにいるそもそもの理由が、スマホを落として画面を割ったせいであることを知らない。

自然と物を落としてしまう、そういう職業があるのならわたしはセミプロの域に達していると言っても過言ではないだろう。職業病のようなもんである。

もしわたしがマジシャンであったならば、席についてパソコンを取り出そうと開けた鞄からハトが飛び出し、タバコに火をつけた瞬間に先端に花が咲き、そしてわたしも椅子から若干浮いているだろう。その場合、横の男性は「マジシャンがいる」と感嘆の表情でわたしの一挙手一投足を見つめる。サインを求めるためのメモ帳があったかな、と思いを巡らしながら。ここでの不幸はわたしの職業がマジシャンではなかった一点につきる。もっとわかりやすい職業だったなら、こんな誤解は生じなかった。ていうか物を落とすプロでもないのだが。そんなプロいてたまるか。

閑話休題。話を戻そう。そういったわけで暇なので、この記事では表題の通り、わたしが日常生活を送る上で「あ、今のわたし映画のワンシーンみたい」と感じる瞬間ベスト3について紹介したい。

ちなみに今ドトールでタバコを吸いながらこの記事を書いている状況も、もしここが少し寂れた個人経営のこだわったコーヒーを出す店だったならば、『コーヒー&シガレッツ』的シーンとして一候補に挙がったのだが、いかんせんドトールなので番付落ちである。今飲んでるの、アイスティーだし。

わたしは基本的に裸族なので、部屋にいる時の正装はTシャツにパンツ一丁である。暑い時なんかはTシャツすら着ていない。これだけだと単なる怠惰な26歳女のクソに近い日常の一コマであるが、ここに特異性が生まれる瞬間がある。外出の予定がある前に、風呂に入り化粧を済ませ髪を巻く。洋服を選ぶ前に、とりあえず下着だけを身に着けて換気扇の下でタバコを吸う、この瞬間である。完璧に仕上がったばかりの女が、まだ洗っていないコップや皿の置かれた生活感のあるシンクの横で、下着だけで虚空を見つめてタバコを吸う、そのアンバランスさ、その奇異性。映画の冒頭にありそうな一コマである。是非とも是枝監督に撮って欲しい。

次に、満員電車、出来れば夜の方がいいが、出入り口にもたれかかって外を眺めている時。これは確実に『ガールオンザトレイン』から連想されている。満員電車というのは、多くの他人が肩と肩を擦り合わせながら移動する乗り物なので、それ故に刹那的な物語が生じやすい場である。酷く酔った様子の若者を挟んで、目の前に座る人と目だけで苦笑の気持ちをやり取りする瞬間。ドアのガラス越しに目が合ったどこの誰かも知らぬ人が、どんどん小さくなっていく光景。赤の他人と密着している特殊な空間なのに、皆当たり前のような顔をして、わたしの横を通り過ぎていく、その違和感。これは西川美和監督にお願いしたい。残業後に疲れて電車の窓によりかかっておくので、発車と共にわたしが遠ざかっていく様子を、ちょっと間延びした感じで撮ってください、と。多分たっかいカメラでどつかれる。

しゃっくりが止まらなくて友達と笑いあっているシーンなんかもいい。必死に息を吐いたり吸ったり、コップの向こう側から水を飲もうとして服がびしゃびしゃになったりするところを、三木聡監督に『インザプール』的ユーモアを利かせて描写してほしい。そこでいきなり日本刀を持った男衆たちに惨殺とかされる場合は園子温監督でいい。BGMはもちろん『バラが咲いた』。是非とも凄惨に殺してもらいたい。

あとは昔付き合って一か月足らずで別れた男に、寝ている時に勝手に服を脱がされて何やら始めようとしている時に目が覚めたシーン。これは「警察24時」とかで特集されたのちに逮捕されて死刑になっていてほしい。まあ撮ってもらうなら引き続き園子温監督だろうが、彼よりも先にAV監督からオファーが来そうだ。謹んでお断りさせて頂く所存である。

学生時代に暇すぎて近所の公園で昼下がりに一人でシャボン玉を吹いていたシーンとかも良さそうだ。いい感じにトチ狂っている。子どもは警戒心がないのでワラワラと寄ってきていた。『菊次郎の夏』とかにありそうなので北野監督にお願いしたい。もちろん遠巻きにこちらを不審そうに伺うお母さん方もセットで。1ボトル吹き終わったら飽きたので残りはそのへんの子どもにあげたが、あのシャボン玉は活用されたのだろうか。お母さんに「捨てなさい!そんなもの」と奪われてなければいいが。

暫定版ベスト3

1.半裸で換気扇の下でタバコを吸うシーン

2.昼下がり公園で一人シャボン玉を吹くシーン

3.しゃっくりを我慢してたら男衆に惨殺されるシーン

まあこんな感じだろう。

3に至ってはもはやただの妄想になっているが、ありそうなので入れておいた。吸う、吹く、止める、という軸で設定した。いずれまた更新したい。

「あ」の一文字で一体いくら稼ぐんだ

現在東京のお台場でやっているデザインあ展に行ってきた。同期の友人と三人で行った。「デザイン展行くとか業界人っぽくない?ひまだし」という、意識が低すぎて地下に潜ってしまったタイプの滑り出しだった。

わたしは予定を前々から立てていると前日や当日の朝に面倒になってしまう性質の悪い人間で、今回も例に漏れず若干面倒になっていた。面倒になった結果当日の朝四時頃までベッドの中で、犬が肉を食べたり人が肉を食べたりするyoutubeの動画を観ていた。

「絶対朝眠いやん、だる」

全方位自分のせいだが逆切れの境地に至っているのでそこには意識が及ばない。より良く生きる、という普遍的な価値に対する一種のアンチテーゼ存在としてわたしは日々を生きている。でも朝はすごく早く目が覚めた上にとてもすっきりと起きれた。自分が思う以上に楽しみにしていたようだ。バカなのかこいつは。

12時に新橋で待ち合わせをした。遠足の時だけ早く来るタイプのアホと同じくわたしも一番最初に到着したので、適当に喫茶店に入った。方向音痴なのでおしゃれな喫茶店などを探しているうちに迷うのが怖くて、一番最初に目についた、看板のカラーの組み合わせがおかしい上にどことなくくすんでいて店内はたばこ臭くて椅子のカバーがあちこち破れて綿が飛び出している、古き悪き喫茶店に入った。頼んだアイスティーは紅茶の香りがする水だった。

しばしして友人の一人からグループLINEで「いまどこ?」と連絡が入る。店名と位置情報を送ったが分からないようだった。

「ゆりかもめ駅入り口前のエスカレーターを新橋駅側に降りて、『行きたくないな~嫌だな~汚いな~』と思う方向に進んだら、『入りたくないな~嫌だな~汚いな~』と思う喫茶店があるので、そこにいます」

と返事をした。

「分からせる気ないやろ」と返事が来たが、二人ともその説明で無事わたしのいた喫茶店に辿りついたので、あの状況での最適解を叩き出していたようだ。

デザインあ展はとても混雑していた。整理券を受け取って、入場まで時間があったので写真撮影可能ブースで写真を撮ることにした。所謂インスタ映えのためのブースである。

「インスタ映え狙っていこうよ」とわたしが言う。

「恥ずかしいやん」と友人が答えた。

なにを言うか!一喝である。インスタ映えというと10代の子たちのもので、20も後半に差し掛かった女が本気でゴールを獲りに行くようにバエを獲りに行くことは滑稽だとするような風潮があるが、そもそも10代なんぞこちらから言わせて貰えば何もしなくともバエている。加工なんかしなくても顔にシミや皺なぞないし、仮にそばかすやニキビがあっても、太陽の下で笑って楽しそうにしていればバエることができる。雷雨の下でやっててもバエている。いや雷雨の下で笑ってんのはそれはそれでアートになりそうですね。 とりあえず、言いたいことは、わたしたちのようなアンチエイジングというワードに現実味が生まれてきたあたりの世代こそ、本気でバエを狙いに行くべきだ、ということである。

「バエを全力で狙うくらいで、結果的にはちょうど良くなるやんか」

「確かにそうかも」「バエ狙っていこっか」

書いてて思ったが、三者三様にバランスよくバカである。

そんな感じでバエを獲りに行った結果ちょうど良い感じに仕上がった写真などを撮った。ちなみにこのインスタ映え演説が尾を引いたせいで、昼ごはんに入った何の引っかかりもない定食屋で、何の引っかかりもない定食を前に三人で一生懸命自撮りをするという地獄の時間が10分ほどあった。改めて写真を見返してみても、この時の写真だけは「何なんだろうこれは」という感想しか湧いてこない。バエにも限界があるだろう。

デザインあ展自体はまあまあ楽しかった。入口付近のブースでは、卵の焼け具合を精巧に再現した作品(食品サンプル)や、弁当の中身をカテゴリごとに分けて展示した作品(食品サンプル)や、それら食材を詰めた作品(弁当の食品サンプル)などが並べられていた。全てスーパーに行けば見れる。

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展示を進んでいくうちに、日常に存在するありふれたものをあえて分解・統一・変形させることで、普段は見過ごしている「物」そのものが持つデザイン性や概念といったものを確認していくようなコンセプトなのかな、と自己解釈できるようになったが、最初は本当に訳が分からなかった。1600円払って食品サンプル見せられてる~と思った。周りのカップルたちは口々に「全然わかんない」「どういう態度で見たらいいのコレ」「意味わかんなくない?」と言っていたが、その口で「でも面白いね」とも言っていた。一種の防衛反応があちらこちらで働いていた。もしくは本当に面白いと感じていたのなら、それはデザインあ展が楽しいのではなく、恋人と一緒にデザインあ展に来ているという状況が楽しいのだと思うので、認識を改めた方がよい。1600円、かかるわけですし。もっと良い使い道、多分あるはず。

一通り見終えて、出口近くのおみやげブースを見た。「あ」の文字が模られたフェルトで出来たストラップや、「あ」と書かれたハンカチなどが、1800円とか2500円とかで売られていた。わたしは「あ」の形をしたシールが五枚入ったものを一つ買った。600円くらいした。

「千と千尋の神隠し」の千尋は、親をブタにされた挙句、「ひ」と「ろ」の二文字を奪われて数字の単位に強制的に改名された上にただ働きを強いられているのに、片や「あ」の一文字が1000円も2000円もするのである。

デザインって分からない。そんなことを思う平日の昼下がりだった。

職場でずっと股間をまさぐる、刑務作業にも近い何か

最近ちょっと太った。人には指摘されない範囲内ではあるが、当社比で確実に肉がついた。わたしは太るとまず顔と腹に肉がつくタイプで、おまけに腹に関しては長いこと寝るか酒を飲むかの不摂生な生活を送っていたこともあり筋肉がほぼ無いため、太れば太っただけ何の抑圧も受けず前に出てくる。ほぼ、と言いましたが「ゼロ」と言っても全く問題はない。「ゼロ」という虚無の概念が古代インド人によって発見・定義され、それにより数学史は飛躍を遂げたが、その恩恵にわたしも与ろうと思う。古代インド人もまさかわたしの腹肉の説明と、人類最大の発明とも言われる0という概念を結び付けて語られる時代が来るとは夢にも思わなかったでしょう。発展は賢者にも愚者にも平等に訪れる。

それで、普段からよく着用している何の変哲もない黒いスキニーパンツがあり、職場にもよく着て行っている。裾が切りっぱなしになっている、さりげないセンスを伺わせるパンツだ。同期からも「お前ジーンズぼろぼろだぞ、早く新しいの買えよ」と評判高い。そのパンツが、太ったせいで少し窮屈になってしまった。といっても全く問題なく着用できるし、痩せないとなあと思いながら履き続けているわけだが、問題はこのパンツのジッパーの滑りがとても良いことだ。

念のため言っておくが、わたしは滑りの良いジッパーというものがとても好きだ。力を入れなくても、手の動きたい方向にスッと付いてきてくれる。わたしはそういうジッパーをとても好ましく思う。主人の背後に伏目がちに佇み、欲しいと思ったタイミングでちょうど良い温度のダージリンを華美ではないが手に馴染むカップで持ってきてくれる、英国執事的な紳士さが滑りの良いジッパーにはある。

翻して、滑りの悪いジッパーのストレスといったらない。急いでいる時に限って何が引っ掛かっているのか石のように動かず、進むことも戻ることも出来ないジッパー。あれはもう家から出なさすぎて外出という行為に強迫的な恐怖を抱くようになった引きこもりと変わらない。力任せに動かそうとして最悪の場合ジッパーの噛み合わせが外れてしまったりすると、もうそのジッパーが付随するものが服であろうと鞄であろうと靴であろうと等しく「ゴミ」と呼ばれるようになる。そう考えると単なる機能・付属品の一部として捉えられていたジッパーこそが、ある物体が何たるかを定義づけることの重要な役割を担っているのかもしれない。すごいぞジッパー、ちゃんと動け。

それで、わたしのスキニーパンツをスキニーパンツたらしめている一部であるジッパーは、優秀な部類に入る方で、履くときにストレスを感じさせたことがない英国紳士なジッパーだ。ただ、滑りが良すぎて意図せぬタイミングで開いてしまうことがある。歩行や着席・起立などのちょっとした運動で勝手に開いてしまうのである。ただ、開くと言ってもこれまでは1センチ程度ずれてきてしまうくらいのものだったので、気付いた時にしっかりと引き上げておけば特に不自由もなく優雅なスキニーライフを送れていたのだが、太ったことでわたしの日常生活に暗雲が立ち込めつつある。

端的に言うと全開になる。歩行程度なら問題はないが、デスク作業の際にちょっと猫背になって腹肉で負荷などかけようものなら、もうフルオープン。試食販売のおばちゃん並みに開かれている。

開かれていた方が良いものは世間には沢山ある。情報、学問、人への親しみ、意識の高そうなセレクトショップのドアなどがそれである。だが、ジッパー、特にズボンについたジッパーに限って言えば、それは「開かれていてはいけないもの」に類される。ズボンのジッパーを「社会の窓」などと言うが、これは意識して閉じていなければいけない。やはりあらゆる他者と交錯する社会的場では、「閉じる」ということが大事になってくるのかもしれない。社会的/フォーマルな状況下においては、他者に対してある程度閉じていることが適切な振る舞いとされることをアメリカの社会学者アーヴィン・ゴッフマンは「儀礼的無関心」と名付け提唱したが、ズボンのジッパーは個人の社会に対峙する態度の象徴として機能しているのだろうか。

一度、そのパンツを履いてそれなりに長時間社内をうろつき、デスクに戻って席に着いた時何気なく目線を落とすとわたしの社会の窓が全開だったことがあった。「うそだろ」と思った。即座にジッパーを上げ戻し、そのスムーズさに英国紳士を感じつつ「どうして?」と思う。

今までずっと一緒に楽しくやってきたじゃない。どうして今になって、よりによってこんな時に、わたしを裏切るのよ。

優しさとはよく切れる包丁と似ている。いつもは心地よく自分を手助けしてくれる存在が、少し間違えば致命的な傷を与える凶器と化す。

わたしはそんなことを考えた。そして対策として、事あるごとに股間をまさぐってはジッパーがずり落ちていないか確認するようになった。ずっと信じていた存在に裏切られた痛みというのは人の意識レベルにまで浸潤してくるもので、デスクでの仕事中や立ち上がって喫煙やトイレに行く時はもちろん、長めのトップスを着ていてジッパーがそもそも見えないような服装の時ですら、トップスをたくし上げて社会の窓の開閉を確認するようになった。そして仮に閉じていたとしても、今一度しっかりと上までジッパーを引き上げる作業をしないと落ち着かなくなった。

もはやガスの元栓や鍵を閉めたかを何度も確認しないと気が済まない強迫神経症と限りなく近い何かになってきている。

かくして、職場でことあるごとに股間付近に手をやってはモゾモゾしている26歳の一人の女が誕生した。股間に手をやり、ゴソゴソする。頭では分かっている。普通にしていればそうそう開くことはないし、気になるならば離席時や人のいないタイミングで確認すれば問題はない。何ならズボンのジッパーが開いていることより、しょっちゅう股間に手をやって何やらやっていることの方が社会的評価には打撃が大きい。分かってはいるが、やるしかない。何かに追い立てられるようにやるその作業は、きっと刑務作業と似ている。

人は大人になるとうんこを拾うようになる

会社で内内の会議をしていて、話もまとまり皆パソコンを閉じた。誰が始めるともなしに雑談が始まり、何の流れだったか「泣いてしまう時」の話になった。

わたしが大学二回生だった頃、特に病んでいたわけでもないのだが、よくある洋服洗剤や柔軟剤のCMで、青空晴れ渡る空の下で母親と幼い子供が真っ白なシーツをパンッ!とやって干すシーンや、真っ白な洗い立てのタオルに子どもが頬をうずめて「やわらか~い」とやる、洗剤CM恒例のアレを見る度に号泣していた時期があった。

何故そんな時期があったか分からないが、とにかく涙腺がガバガバの時代があった。明治安田生命のCMなんかは当然号泣。太陽が東から上り西に沈んでいくことと、わたしが明治安田生命のCMを見て泣くことは等しく自明なことであった。もはやパブロフの犬。たまにテンションが上がりすぎて嬉ションする犬がいるが当時のわたしはそれと似たようなもんだった。小田和正流れたら泣く、そういう生き物だった。まあさすがにおしっこは漏らしてないですが。かれら人類の友としての地位を確立したと思って呑気に口呼吸しながらしっぽぶん回してますが、ゆうても獣なのでね。獣とは区別して頂きたい。口で体温調節とかしないし、わたし。

保険のCMで泣き、真っ白なシーツで泣き、ACのCMで泣き、バファリンのCMで泣き、あとはあれですね、自分でもそろそろやべえなと思ったのがタケモトピアノの「ピアノ売ってちょぉぉ~だい」のやつで泣いたとき。号泣しながら自分に引いた。通常であれば「何度見ても狂ってるなこのCM」とか「このCMで赤ちゃん泣き止むってほんとかな」とかその程度の反応が今や号泣である。

後ろで踊ってるわけわかんないタイツ着た女性たちもダンサーとして粒粒辛苦の努力を積み重ねて遂にCM出演。彼女らの母や父はタケモトピアノのCMが流れる度に膝を整えてTVに向き合い娘の姿を目で追うのだろう。そう考えて泣いた。

「はあ?」である。もう面倒なのでこの話はいい。

わたしの告白を聞き、「それ単純に病んでんだよ、申し訳ないけども」と先輩が言い、「そういえば」と続けた。「俺も泣けるCMあるんだよ」

これである。

www.youtube.comスムーズに話を進めたかったがちょっと待ってほしい。実はわたしは上記の鈴与CMを知らなかったので、代わりに脳内補完で「こんな感じかな」と思い浮かべていたのが以下のCMだ。

www.youtube.comその先輩は「子どもが無邪気に未来について考えたり、子供らしい勘違いをしたりしてたら、すげえ可愛いんだけど、でもいつかこの無邪気さってなくなっちゃうんだよなあって思うと泣けちゃうんだよ」とまあまあ大人の闇を感じる理由を訥々と述べていたが一旦いい、その話は。

下の西鉄CMなら確かに泣ける。納得である。というかわたしも完全に*イメージ:西鉄鉄道CM、で想像していたので「ああ~あれ泣けますよねえ」とかアホ面で答えていた。泣けるのはお前の頭だ。

初めの鈴与CMを今一度観てほしい。凪いだ海。真っ青だ。すると何だか笑いを堪えているかのような間の抜けた女の声で「見たことないぃ~ものぉ」と歌が始まる。 見たことないものがどうした?どうなるんだ?歌の続きを気にしつつ画面につい食い入ると、「見てみぃぃた~~」のところで凪いだ海から突然クソデカいクジラが半回転のひねりを加えながらズバアアーーーーーーー出てきて「見てみたいや」の「た~~~いやぁ」の収束に合わせてドッパァァァーーーーーーン!!!!!着水。

シンプルに爆笑である。笑いを生み出す仕組みは様々にあり、その中に「静と動の急激な変化」や「不条理さ」などがあるが鈴与CMはこの二つを確実に満たしている。凪いだ海から突然の半回転ルッツでクジラがズバアアアーーーーーーーーードッパァァァアアだ。笑わない訳がない。ごっつ時代のダウンタウンのコントに見られたナイフのように鋭い静から動への移り変わりがここにはある。

そもそもクジラは存在そのものが不条理である。でかすぎる。子どもに「おっきい動物ってなにかな?」と聞いてみてほしい。恐らく十中八九「ゾウ!」と笑顔を弾けさせて答えるはずだ。ゾウは確かに大きいが、温厚(そう)で、大らか(そう)で、そして動物園に行けば会える。身近だからこそ、大きさが何十倍、いや何千倍と違う小さな子どもからもゾウは愛され、にんじんやら林檎やらを手渡しで与えて貰えるのである。

だがクジラはどうか。そもそもクジラは普段は沖の海を回遊しているので直接見る機会など大人でも中々ない。金と手間をかけてホエールウォッチングにでも行くしかない。行動が制限される子どもなど尚更。なんなら「クジラ?しらない!」である。クジラを既知の子どもはクジラを呼び捨てになどしない。「クジラさん」、もしくは礼節を弁えた子どもなら「クジラさま」である。当然だが手渡しでそこらへんの草など与えようとしない。ただその大きさにひれ伏し、忘れかけていた被捕食者の恐怖と惨めさと羨望が綯い交ぜになった震える呼吸がクジラに漏れ聞こえてしまわぬよう、ただ唇を噛みしめてクジラが通り過ぎるのを待つことしか出来ない。

食物連鎖の頂点に君臨したと奢り高ぶった人類に、異議を唱える存在がクジラである。クジラは我々に大きさというものに対しての無力をその身を持って教えてくれる。少年ジャンプなんかで小さな者が大きな者に勝利するストーリーは溢れているが、所詮子ども騙し。アリが剣を持とうが銃を持とうが踏みつぶされて終わりなように、わたしたちもクジラに勝つ術など持たない。アイヌはこの世にいる動物たちをカムイ、つまり神や、神の贈り物として敬い、自然と共存する生き方を選択した。わたしも彼らに倣って、以降は敬意をこめてクジラをアイヌ語の「フンぺ」と記述したい。

話を戻そう。その神なるフンぺがアホみたいな女の歌に合わせて、いやフンぺが合わしてるわけじゃないが、海から半回転ルッツをしながらズバアアーーーーーーーーだ。笑わない方が失礼。ズバアアーーーーー!!!からのドッパアァァァーーーーーン!!!フィギュアスケートなら100点、飛び込みなら0点のフンぺによる演技である。

「見たことないもの 見てみたい」と歌っているが、今そこに見えているものは何だ。目の前で今まさに見たことないものが大はしゃぎ中だ。フンぺが半回転ルッツからの0点着水する姿など誰が見たことあるか。歌ってないで前を見ろ。目を開け。括目せよという言葉と結婚して根性と歌声を叩き直して貰いたい。

 

話がずいぶん逸れましたがそういう感じの話があってですね。大人になることとは何かって話になった時に「大人になるとうんこ踏まなくなるよね」とフンぺCMで泣いた先輩が言ったわけですよ。「子どもは前を見て走っているから下が見えなくてうんこ踏んじゃうけど、大人は下ばっか見て歩いてるからうんこ踏まないんだよ」

「いや踏みますよ」と。満場一致で「踏むよ」と。一人の先輩なんかは「なんなら飼い犬のうんこ膝で踏みますよ」と言うわけです。踏むのかあお前ら、となった時にわたしが言うわけですよ。

「わたしなんかトイレから飛び散った飼い猫のうんこをそれだと気づかないで拾ったりしますよ」

「得体の知れねえもん素手で拾うなよ」

その通りですね。

意識が高すぎると人は残飯に価値を見出すようになる

この前20時か21時くらいまで会社で残業をしていて、さてそろそろ帰ろうかという時分に同期の男を見かけた。

この男はわたしが会社から割り当てられているコインロッカーの近くに座っているので、ひまな時に数分ほど立ち話をする。その時も「まだ仕事あんの~?」くらいのテンションで話しかけた。

だいぶ仕事が立て込んでいるようで、男はちょっと疲れた顔で「まだちょっとやることあるんだよ」と言っていた。

この男、とにかく意識が高い人物で、その高すぎる意識に身体が追い付いていないタイプの人間である。将来はワーカホリック。これはもう決まっている。わたしの中で。

そして常に黒いシャツを着ている。下半身は黒スーツズボン。わたしも黒い服ばかり着ているので人に言えた義理ではないがもはや葬式帰りである。あるいはいつでも葬式に行ける。

黒シャツ固定には経緯がある。入社後しばらくは広告代理店らしからぬリクルートスーツにメガネをかけた「地味」が服を着て歩いているような男だったので、ある日着てきた黒シャツを「おしゃれやん」と褒めたら本当にそれしか着てこなくなった。

本人的にはスティーブ・ジョブスのように服を選ぶ時間を削減していると悦に入っている可能性すらあるが、こちらとしては恐らく一枚しかないであろうその黒シャツをどのようにして着まわしているのか気になって仕方がない。というか回せていない。ちゃんと洗っているのか。その黒色は垢汚れなんじゃないのか。洗え。他の色のシャツを着ろ。喪に服すな。

ちなみに現在勤める会社から内定後に出されたグループ課題で男とわたしは同じ班だったのだが、課題制作が修論の締切前の追い込み時期とモロかぶりしており、悩みに悩んだ末に「修論に集中したいので一週間内定課題から離れさせてほしい」とメンバーに伝えた直後、班リーダーをやっていた男が「では昨日のリーダー会の様子を共有します。『この程度の課題が学校やバイトと両立できない人はどうせ仕事できない』と会社の人が言っていました」と発言したことをわたしはありありと記憶している。明確な殺意が生まれる瞬間というものをみなさんは体験したことがあるだろうか。わたしはある。

まあそれは置いておいて、意識高い人間の例に漏れずこの男も会社へのロイヤリティーが謎に高い。三日飲まず食わずの野良猫に高級猫缶をやってもここまで忠誠心は抱かないだろうと思う。ワンピースのギンだって飯貰っときながらすげー戦ってたし。サンジと。あれはほんとひどいと思う。

そんな男が神妙な顔をして「これを見てくれ」と言って傍にあった小箱を開けたものだから、覗き込むとなんのことはないただのランチボックスである。ハンバーガーとサンドイッチ二切れ程が入っている。

「これが何よ」とわたしは尋ねた。

男は言った。

「これはねえ…さっき俺が参加してきた社長や役員たちが出席する会議の軽食の余りなんだ」

だから何だという話である。希少な鉱物を入手したとでも言うなら少しは付き合ってやろうかという気にもなるが要するに残飯である。26年間生きてきて残飯をしずしずとご紹介預かるわたしの人生とは何なのだろうと思いを馳せたくなる。

「だからなに」

五文字である。シンプルに興味がない。興味はないが、人として最低限の付き合いはしておかねばならないだろうと葛藤した時この五文字は現れる。

「ただの残り物だけどさあ…社長や役員の残り物だと思うと味わいもひとしおだよね…」

シンプルに「なんだこいつ」と思った。20代も後半にさしかかった男が社長と言えども肩書をひん剥けばただのおっさんたちの残飯を恍惚とした様子で眺める姿はもはや不気味を通り越して理解不能である。命を捨てても愛し抜くと決めた相手がいたとしてもその愛しき人の残飯には愛着は抱かないだろう。人が残飯を愛しさを持って見つめる時、そいつはただ空腹である。なんか食え。それで終わりである。

でもよくよく思い出してみたらわたしも高校の時の漢文教師にガチ恋をしていた時は、その教師に借りた本に挟まっていた髪の毛が愛おしくてしばらく眺めていたことがある。小さなガラス小瓶に入れて机に置いておきたいとさえ思った。ガラス小瓶に想い人の髪を入れて飾る女はただの狂人である。それか呪術師。

というわけでこの男は恐らく社長や役員に心底恋をしているのだろう。好きな人と働けるヨロコビ、いいですよね。行き着く先は残飯ですが。